1963年2月、「大映」からフリー宣言をすると、記者会見では円満退社を強調するも、実際には、「大映」の永田雅一社長により、映画界・演劇界から完全に干されてしまったという、山本富士子(やまもと ふじこ)さんですが、その後、テレビドラマ「明治の女」で復帰を果たすと、いきなり、高視聴率を記録します。

「山本富士子は昔「大映」永田社長により芸能界から干されていた!」からの続き

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テレビドラマ「明治の女」で女優復帰すると高視聴率を叩き出す

1963年2月、「大映」を退社してフリー宣言したことで、「大映」の永田雅一社長により、映画界・演劇界から完全に干されてしまった山本さんは、一時は、女優業を引退することも考えたそうですが、

映画会社の強い圧力も、テレビ業界にはそれほど影響がなかったのか、同年、TBSのプロデューサー・石井ふく子さんの勧めもあり、東芝日曜劇場「明治の女」(7月7日放送)で復帰を果たすと(初のテレビ出演)、24.5%という高視聴率を記録。

(放送が終わって1分も経たないうちに山本さんの自宅にはファンから応援の電話が殺到したそうです)

すると、その後、テレビ局各局から出演依頼が殺到したそうで、「山本富士子アワー1~5」で主演を務めるほか、「お母さんの骨をもらって歩けた」(1963)、「愛する」(1964)など、次々にテレビドラマに出演すると、軒並み高視聴率を叩き出したのでした。


「お母さんの骨をもらって歩けた」より。(左から)山本さん、北村和夫さん、石井浩さん。

テレビドラマ出演後は舞台を中心に活動

そんな山本さんは、1964年4月には、周囲の尽力により、新歌舞伎座公演で松本幸四郎(現・二代目松本白鸚)さんと共演するなど、舞台活動も再開すると、以降、2013年まで舞台を中心に活動しているのですが、

映画には、(1971年に「五社協定」が崩壊した後も)あえて出演せず、1963年、 市川崑監督作品「雪之丞変化」が最後の映画出演となっています。

(1983年には、市川崑監督から、映画「細雪」への出演依頼がくるも、山本さんはこれを断ったそうで、岸惠子さんが山本さんの役を演じたそうですが、山本さんは、公開された映画を観て、出演しなかったことを後悔したそうです)

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「大映」の倒産と「五社協定」の崩壊

ちなみに、山本さんが去った後、「大映」は、長谷川一夫さんが映画界引退、市川雷蔵さんが死去、田宮二郎さんを解雇と、看板スターたちが次々といなくなって没落していくと、1971年には倒産。これに伴い「五社協定」も崩壊しています。

(1964年の東京五輪をきっかけに、一般家庭にもテレビが普及していき、映画界自体も斜陽化していったそうです)

「山本富士子のデビューからの出演映画ドラマ舞台を画像で!」に続く

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