1953年、阪神タイガースに入団すると、抜群の制球力と快速球で、1962年の優勝に貢献するなどの活躍で176勝すると、1964年、大毎オリオンズ移籍後も、パームボールを駆使して144勝を挙げ、通算320勝という凄まじい記録を打ち立てた、小山正明(こやま まさあき)さん。

今回は、そんな小山正明さんの、若い頃(高校時代~プロ野球現役時代)の活躍や経歴を時系列順にご紹介します。

小山正明

Sponsored Link

小山正明の10代の頃

高校3年生の時に阪神の入団テストを受けるも2ヶ月以上音沙汰がなく洋松ロビンスの入団テストも受けていた

小山正明さんは、兵庫県立高砂高等学校に進学後、野球部に入ると、1952年11月、高校3年生の時には、阪神タイガースの入団テストを受けたそうですが、2ヶ月以上音沙汰がなかったそうで、

不安にかられ、翌年の1953年2月には、洋松ロビンス(現・横浜DeNAベイスターズ)の入団テストも受けたそうです。

(高砂高等学校は野球では無名の高校だったそうです)

高校3年生の時に入団テストから5ヶ月後にようやく阪神から合格通知が届いていた

すると、残念ながら、洋松ロビンスは、人数制限で不合格となったそうですが、阪神からは入団テストから5ヶ月後にようやく合格通知が届いたそうで、

練習生として阪神に入団すると、メキメキと頭角を現し、練習生⇒二軍⇒一軍と昇格したそうです。

19歳の時に広島戦での初登板で大暴投していた

そんな小山正明さんは、1年目の1953年8月26日(19歳)、初登板の広島戦では大暴投してしまったそうですが、この年は、16試合に登板して、5勝1敗の成績を残します。

小山正明の20代の頃

22歳の時はストレートのみで勝ち星を重ね主力投手になっていた

小山正明さんは、4年目の1956年、22歳の時には、(カーブやスライダーを覚えるまでは)ストレートだけで三振の山を築いて、勝ち星を重ねたそうで、

このシーズンは、17勝、防御率1.66(リーグ6位)と好成績を収め、大崎三男投手、渡辺省三投手と並び、主力投手となっています。

小山正明

23歳の時に渡辺省三を手本にコントロール力を鍛えていた

ただ、なかなか目標とする20勝に届かず、思い悩み始めたそうで、プロ入り5年目の1957年、23歳の時には、1年先輩の投手・渡辺省三さんから、ピッチャーで最も大切なことはコントロールだと教えられ、コントロール力を養うため、渡辺省三さんをお手本に徹底的に走り込みをして下半身を鍛えると、コントロールが良くなったといいます。

小山正明

24歳の時に天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)では先発を任せられていた

すると、小山正明さんは、1958年、24歳の時には、24勝12敗、防御率1.69の成績で、初の20勝を達成して、一躍、大阪(阪神)タイガースのエースとなり、

翌1959年6月25日、プロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)では先発を任せられます。

しかし、小山正明さんは、緊張のあまり、球が走らなかったそうで、5回には長嶋茂雄選手と坂崎一彦選手に、7回には王貞治選手にホームランを浴び、ルーキーの村山実さんと交代させられてしまいます。

28歳の時に苦手だった王貞治を抑える為にパームボールを使い始めていた

そんな小山正明さんは、もともと、王貞治選手が苦手だったことから、1962年、28歳の時には、王貞治選手を抑える為、かねてから練習していたパームボールを使うことにしたそうです。

すると、翌年の1963年には、王貞治選手から1本もホームランを打たれず、同年、大毎オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)に移籍してからも、パームボールを駆使して(打たせて捕る投球スタイルに徹して)、内野ゴロの山を築き、30勝12敗(通算200勝)で最多勝を獲得したのでした。

28歳の時にキャッチボールで暴投し三宅秀史の左目に大ケガを負わせていた

そんな中、1962年9月6日、小山正明さんは、試合前にセンター側でキャッチボールをしていた際、暴投してしまい、レフト側で安藤統男さんとキャッチボールをしていた三宅秀史選手の左目を直撃し、大ケガを負わせています。

28歳の時にリーグ優勝に大きく貢献するもMVP(最優秀選手)に選ばれたのは後輩の村山実だった

小山正明さんは、1962年は、27勝11敗、防御率1.66、47イニング連続無失点、270奪三振、13完封(セ・リーグ記録)という素晴らしい成績で、阪神タイガースのリーグ優勝に大きく貢献しているのですが、

MVP(最優秀選手)に選ばれたのは、小山正明さんとともに2本柱として活躍した、後輩の村山実さんでした。

(村山さんの成績は25勝14敗、防御率1.20、265奪三振)

というのも、当時、MVPは、スポーツ記者投票によるものだったそうで、必ずしも、野球の成績や実績のみで決められていた訳ではなかったのだそうです。

そんな中、小山正明さんは、同年(1962年)の東映フライヤーズとの日本シリーズ第7戦では、延長10回に1点を先制されているのですが、試合中だったにもかかわらず負けたと早とちりし、ロッカールームに引き上げ、風呂に入ってしまったといいます。

29歳の時に大毎オリオンズにトレード移籍

そんな小山正明さんは、1963年、29歳の時には、大毎オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)の中核を担っていた山内一弘選手と1対1のトレードが成立し、「世紀の大トレード」として大きな注目を集めているのですが、

かねてより、大毎オリオンズの永田雅一オーナーからトレードを熱望されており、このことを知った小山正明さんは、それほどまでに望まれているのならと、トレードを受け入れたのだそうです。

小山正明
「世紀のトレード」の記者会見。(左から)山内一弘さん、阪神・野田誠三オーナー、大毎・永田雅一オーナー、小山正明さん。

実は、永田雅一オーナーは、小山正明さんの投球技術はもちろんのこと、小山正明さんの人間性も高く評価していたといいます。

また、貧打線に悩んでいた阪神タイガースも、大毎オリオンズの強打者だった山内一弘選手がもらえるならと、永田雅一オーナーの猛アタックを受け入れ、小山正明さんをトレードに出したのだそうです。

小山正明
「世紀のトレード」の記者会見より。山内一弘さん(左)と小山正明さん(右)。

小山正明の30代の頃

30歳の時(移籍1年目)に200勝を達成すると永田雅一オーナーから200万円の高級腕時計をプレゼントされていた

こうして、大毎オリオンズに移籍した小山正明さんは、移籍1年目の1964年8月13日、30歳の時には、通算200勝を達成しているのですが、

永田雅一オーナーからは、200万円の高級腕時計をプレゼントされるなど、大変気に入られていたそうです。

30歳の時(移籍1年目)に大毎オリオンズで最多勝(30勝)を達成

そんな小山正明さんは、東京オリオンズ(この年、「大毎オリオンズ」から改称)移籍1年目の1964年に、いきなり自己最多の30勝を挙げ、最多勝を獲得すると、

2年目、3年目も20勝し、1970年には、史上唯一の両リーグ100勝を達成。1971年には、通算300勝も達成しています。

小山正明

39歳で現役を引退

ただ、そんな小山正明さんも、1972年は9勝に終わると、翌年の1973年には大洋ホエールズ(横浜DeNAベイスターズ)にトレードされ、1年目は好成績を収めるも、肘の故障により、同年10月24日、現役を引退したのでした。

小山正明

Sponsored Link

小山正明の30代(現役引退後)~現在(90代)

小山正明さんは、現役引退後の1974年、40歳の時からコーチや解説者として活動していたのですが、2017年、83歳の時には、1999年から務めていたサンテレビの解説者を勇退しています。

それでも、2024年現在、90歳にして、福本豊さんのYoutubeチャンネルに出演するなど、今もなお、元気に活動を続けています。

小山正明

お読みいただきありがとうございました

Sponsored Link