1972年、25歳の時、「サディスティック・ミカ・バンド」を結成し、1stシングル「サイクリング・ブギ」をリリースするも、当初は、前衛的な音楽とビジュアルにこだわった華やかなファッションが受け入れられなかったながら、

1stアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」がイギリス・ロンドンで評判となり、逆輸入される形で、評価されるようになると、1975年11月にリリースした2ndアルバム「黒船」は、日本のロック史上に残る名盤となった、加藤和彦(かとう かずひこ)さん。

今回は、加藤和彦さんの、若い頃(「サディスティック・ミカ・バンド」時代)のアルバムや代表曲などを時系列でご紹介します。

加藤和彦

「【画像】加藤和彦の若い頃(ソロ時代)は「あの素晴しい愛をもう一度」がヒット!」からの続き

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加藤和彦は25歳の時に「サディスティック・ミカ・バンド」を結成し「サイクリング・ブギ」をリリース

「ザ・フォーク・クルセダーズ」解散後、ソロとして活動していた加藤和彦さんですが、1972年11月、25歳の時には、イギリス・ロンドンを中心としたポップ・ムーブメントの刺激を受けて、フォークからロックに転向し、

妻の加藤ミカさんをボーカルに据え、角田ひろ(ドラムス、現・つのだ☆ひろ)さんと共に「サディスティック・ミカ・バンド」を結成すると、

1972年6月21日には、ファーストシングル「サイクリング・ブギ」をリリースしています。

「サイクリング・ブギ」
「サイクリング・ブギ」

「サディスティック・ミカ・バンド」の名前の由来は?

ちなみに、「サディスティック・ミカ・バンド」の名前の由来ですが、ジョン・レノンさんとオノ・ヨーコさんのバンド名「プラスティック・オノ・バンド」から着想を得たそうで、

妻の加藤ミカさんが、料理ができず、魚を切る時、サディスティックに扱っていたことから、”サディスティック”となったのだそうです。

「サディスティック・ミカ・バンド」は当初はファンから理解されなかった

さておき、「サディスティック・ミカ・バンド」は、その後、間もなく、角田ひろ(現・つのだ☆ひろ)さんが脱退して、高中正義さん(リードギター)が加わり、

さらに、高橋幸宏さん(ドラムス)、小原礼さん(ベース)が加わると、

ロンドンポップ、グラム・ロック、レゲエ、琉球音階などを導入するなど、実験精神に溢れたサウンドを展開するほか、ファッショナブルで華やかなビジュアルにこだわるも、

(当時の日本人には)あまりにも進歩的過ぎたことから、なかなか理解されなかったほか、

(ファンは、「ザ・フォーク・クルセダーズ」時代の加藤和彦さんを求めていたことから、ライブでの大音量の演奏や、派手な衣裳、原色の髪の色、というスタイルに驚いたといいます)

ライブでのバンド名は、「加藤和彦とサディスティック・ミカ・バンド」と表記されたそうで、

加藤和彦さんは、自分の名前が冠されるのを嫌がったそうですが、それではチケットが売れないからと、加藤和彦さんの要望は却下されていたといいます。

加藤和彦は1stアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」をリリースするも国内では全く売れなかった

そんな中、1973年5月5日には、ファーストアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」をリリースし、イギリスでもハーヴェスト・レコードからリリースすると、

当初、国内では、数千枚しか売れなかったものの、イギリス(特にロンドン)で評判となると、逆輸入される形で、評価されるようになったのでした。

「サディスティック・ミカ・バンド」
「サディスティック・ミカ・バンド」

小田和正さんがサポートメンバーとしてピアノを弾いています)

加藤和彦は27歳の時「サディスティック・ミカ・バンド」として「キャロル」とジョイントツアー

ただ、1974年、「サディスティック・ミカ・バンド」は、矢沢永吉さん率いるロックバンド「キャロル」とジョイントツアーをすると、当初は、「サディスティック・ミカ・バンド」がメインで、「キャロル」は前座だったそうですが、

途中から立場が逆転してしまったそうで、「サディスティック・ミカ・バンド」が「キャロル」の前座をすることになってしまったといいます。

(「キャロル」は、1972年、革ジャンにリーゼントというスタイルで衝撃的なデビューを果たしていました)

加藤和彦は27歳の時に「サディスティック・ミカ・バンド」としてリリースした2ndアルバム「黒船」が国際的に評価されていた

それでも、そんな中、ファーストアルバム「サディスティック・ミカ・バンド」を聴いたイギリスの大物音楽プロデューサーのクリス・トーマスさんから、プロデュースをさせてほしいとの申し出があったそうで、

クリス・トーマスさんプロデュースにより、1974年11月、2枚目のアルバム「黒船」をリリースすると、「黒船」は、日本のみならず、イギリスでも評判となり、

(この頃から、今井裕さん(キーボード)が加わっています)

1975年には、イギリスの人気バンド「ロキシー・ミュージック」とのイギリスツアーも成功させるなど、「サディスティック・ミカ・バンド」は、国際的な評価も獲得したのでした。

(この頃から、後藤次利さんが(ベーシスト)加わっています)

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加藤和彦は28歳の時に「サディスティック・ミカ・バンド」を解散していた

そんな「サディスティック・ミカ・バンド」は、同年(1975年)11月には、3枚目のアルバム「HOT! MENU」をリリースしたのですが・・・

加藤和彦さんと加藤ミカさんが離婚したことにより、「サディスティック・ミカ・バンド」は解散したのでした。

(予定されていたプロモーション活動やツアーなど、すべてキャンセルとなったのだそうです)

「加藤和彦の死因は自殺!理由は?遺書を友人らに郵送していた!」に続く

「サディスティック・ミカ・バンド」
「サディスティック・ミカ・バンド」

お読みいただきありがとうございました

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