前妻のジョーン・シェパードさんとは、”芸能界一のおしどり夫婦”と呼ばれていた、千昌夫(せん まさお)さんですが、シェパードさんと離婚した後のプライベートはどのようなものだったのでしょうか。今回は、千さんの現在の奥さんと子供たちをご紹介します。
「千昌夫と最初の妻・ジョーン・シェパードの離婚理由は?」からの続き
長女が誕生するも恋人・アマンダ・スターナードとは未入籍だった
千さんは、前妻・シェパードさんとの離婚の原因と言われた、恋人・アマンダ・スターナードさんとの間に、1989年5月、長女が誕生しているのですが、この時は、まだ、アマンダさんとは未入籍で、
同年11月、芸能記者の取材に対し、
子どもは、近々、ボクの籍にいれるよ。 親(アマンダさん)のほうはまだちょっと・・・。 一度失敗していると、やっぱり慎重になるからね。また別れたってことになってもいけないし・・・
入籍となると、財産問題が必ずからんでくるから
と、語っています。
アマンダ・スターナードとは3人目の子供が生まれた年に再婚
それでも、千さんは、その後、立て続けに3人の子供が誕生すると、3人目の子供が生まれた1992年7月にアマンダさんと再婚して、ハワイで挙式しているのですが、
事業の失敗により、借金返済の金策に奔走する日々の中、子供たちの存在が、疲れた心を癒やす、かけがえのない存在となっていたそうで、
千さんは、1991年、「週刊ポスト」(11月29日号)の取材に対し、
昔は危ない橋も事業だったら渡らなくちゃと思ったけど、(子どものいる)今は安全を確認してからじゃないとね
子どもの顔を見れば、借金の苦労も吹っ飛ぶ
と、語っています。
息子は?娘は?
ちなみに、千さんとアマンダさんの間には、4人の子供(息子2人娘2人)がおり、1989年5月に長女のナターシャさん、1991年に次女のダニエラさん、1992年に長男のアレキサンダー太郎さん、1993年に次男のローレンス健樹さんが誕生しています。
(次男・ローレンス健樹さんは、生後まもなく、白血病にかかったと言われていたのですが、その後、どうなったのか詳細は不明です。また、長男・長女は情報がないことから一般人だと思われます)
次女・ダニエラはモデルとして活動していた
また、次女のダニエラさんは、2009年、18歳の時、女性ファッション誌「GLAMOROUS」で本格的にモデルデビューしているのですが、それに先立って、同年9月30日、TOYOTA「iQ」のデビュー1周年を記念して開催された、「GLAMOROUS」とのコラボレーション「GLAMOROUS night 2009 ~CIRCUS~×iQ Parade」に登場した際、
会見で、取材陣から、
デビューにあたって、お父さん(千昌夫)の反応は?
と、質問されると、
英語で、
父はすごく喜んでくれたし、協力的でした
父も私に対して『歌手もやってほしい』との気持ちがあるみたい。でも今のところ、私にはその気はなくて。将来的には(父と)共演することもあるかもしれないけど・・・
と、答え、
お父さんが、どんな人かと聞かれると、
日本では変わった人に見られているみたいだけど(笑)、私にとってはごく普通の父親です
と、答えています。
次女のダニエラさん。
次女・ダニエラは小さい頃からモデルに憧れていた
ちなみに、ダニエラさんは、小さい頃からモデルに憧れ、2007年頃から、本格的にモデルを目指すようになったそうで、
デビューまでにたくさんの人からのサポートをいただき、本当に感謝しています。これからもどんどんキャリアを積み、モデルとして成功したいですね。今は教育との両立もあってハワイで活動しているけど、将来的には日本で活動することも考えています
と、意気込みを語っており、
(憧れのモデルは長谷川潤さんだそうです)
会見後には、お母さんのアマンダさんが駆けつけて、
今日は特別な日。娘のことを誇りに思うし、心からおめでとうと言いたい
と、ダニエラさんに花束を手渡すと、笑顔で応えていたのですが、
2009年10月以降は活動していないようで、現在、何をされているか不明です。
(オスカープロモーションのHPには、2022年現在も在籍していることになっています)
妻のアマンダさんと次女のダニエラさん。
さて、いかがでしたでしょうか。
千昌夫さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?
- 本名は?芸名の由来は?
- 幼少期は貧しい生活を送っていた
- 小学4年生の時に父親が他界
- 中学卒業後は兄にならって左官屋になろうと思っていた
- 母親に勧められ高校進学も下宿代を払うためのアルバイトに明け暮れていた
- 今の生活から抜け出す方法をずっと考えていた
- 貧乏生活から抜け出すため歌手になることをひらめく
- 高校2年生の時に作曲家・遠藤実に弟子入りする決意をしていた
- 家族に内緒で高校を中退し歌手になる決意をしていた
- 作曲家・遠藤実の自宅を訪ねるも歌手を目指す若者たちでいっぱいだった
- 作曲家・遠藤実には門前払いされていた
- 作曲家・遠藤実から弟子入りを許可される
- 内弟子生活中は舟木一夫などスターとの接触が大きな刺激となっていた
- 1stシングル「君が好き」でデビューするも3rdシングル「君ひとり」まで鳴かず飛ばずだった
- 師匠・遠藤実を怒らせ追い出されていた
- デビューできてもシングル3枚目までが勝負だった
- 当初B面だった「星影のワルツ」が大ヒット
- 「星影のワルツ」の大ヒットには千昌夫のひたむきな努力があった
- スターになっても節約生活を続けていた
- 節約生活を続けていた3つの理由とは?
- 「ケチ」と呼ばれることを誇りに思っていた
- 某有名男性歌手は印税を周囲の大人たちに使い込まれていた
- 22歳の時に約5万坪の土地を2000万円で購入していた
- 「太平住宅」の専務・竹村正也から2000万円を借りて土地を購入していた
- 5万坪の土地を担保に資産運用を始めていた
- 手持ち資金ゼロ円で赤坂一等地35坪の土地を購入
- 手持ち資金ゼロ円で土地を購入した方法とは?
- 大栄信用組合からは理事長と直談判して6000万円の融資を受けていた
- ビルの建設に乗り出す
- 手持ち資金ゼロ円で自社ビルを建設
- 最盛期の総資産は2000~3000億円だった
- 最盛期に所有していた資産
- 「北国の春」が大ヒット
- 「北国の春」は作曲家の遠藤実が5分で作曲していた
- 「北国の春」は千昌夫の直訴で「東京のどこかで」のB面からA面に変更されていた
- 「北国の春」を歌唱する際にはよれよれのコートを着るなど独特のスタイルだった
- 作曲家・遠藤実の反対に遭うも説得し押し切っていた
- 「出稼ぎスタイル」が視聴者にウケる
- 「星影のワルツ」と「北国の春」は時間をかけてヒットさせていた
- 売れると見込んだ曲は周囲の反対を押し切って歌い続けていた
- 歌唱力ではなく強い個性と1曲を粘り強く歌い続ける戦略を立てていた
- 地方公演はギャラが高かった
- 地方公演では自分の好きな歌を歌うことができたうえ反応も直接感じ取れた
- 地方公演ではかなりの宣伝効果が期待できた
- ディスコグラフィ(シングル)
- ディスコグラフィ(オリジナルアルバム)
- ディスコグラフィ(デュエット・シングル)
- 最初の妻とテレビCM「クイントリックス」に出演
- 交換した名刺の裏には必ずその人物についてメモしていた
- 日頃から時間をムダにせず事業のヒントになるものを探していた
- ファンとは食事を共にするほか後日電話でお礼をすることもあった
- 人に好かれるキャラクターで実業家たちとの交流を増やしていた
- 当初は「歌手・千昌夫」が事業の成功の秘訣であると認識していたが・・・
- 「自転車操業」的な経営で借金が膨らむ
- バブル崩壊の兆しが見え始め金策に奔走
- 「おやじ先生」で歌手活動を本格的に再開するも・・・
- 歌手活動再開は経営危機のためと認める
- バブル崩壊で不動産が3~4割減もしくは売れなかった
- 借金返済のため毎月15~16ヶ所の地方公演を強行していた
- 明るく前向きに語るも・・・
- 1032億円の負債を抱えて破綻状態に
- 債務者に誠意を持って対応していた
- 最初の妻はアメリカ人歌手のジョーン・シェパード
- 最初の妻・ジョーン・シェパードは「新婚さんいらっしゃい!」のアシスタントもしていた
- 最初の妻・ジョーン・シェパードとはCM共演で「芸能界一のおしどり夫婦」と呼ばれるように
- 最初の妻・ジョーン・シェパードと離婚(子供はなし)
- 慰謝料50億円と噂されるも実際は家の居住権を譲っただけだった
- 最初の妻・ジョーン・シェパードは立ち退きを迫られアメリカに帰国していた
- 最初の妻・ジョーン・シェパードはアメリカに帰国する際、千昌夫に励ましの言葉を贈っていた
- 長女が誕生するも恋人・アマンダ・スターナードとは未入籍だった
- アマンダ・スターナードとは3人目の子供が生まれた年に再婚
- 息子は?娘は?
- 次女・ダニエラはモデルとして活動していた
- 次女・ダニエラは小さい頃からモデルに憧れていた
について、まとめてみました。
幼い頃のひもじさをバネに、長年、事業に邁進してきた千さんですが、2021年4月15日にトーク番組「徹子の部屋」に出演した際には、鳥を12羽飼っていること明かしており、今は、借金の問題も片付き、家族との時間を大切に、ゆっくりと芸能活動をしているのかもしれません。
インコを優しい眼差しで見守る千さん。