1989年には、ダイエーホークス(現・ソフトバンクホークス)の監督に就任するほか、盟友・星野仙一さんに誘われ、阪神タイガース、北京五輪、楽天イーグルスではコーチも歴任した、田淵幸一(たぶち こういち)さん。

今回は、そんな田淵幸一さんの若い頃(監督・コーチ時代)から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

田淵幸一

「【画像】田淵幸一の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」からの続き

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田淵幸一の40代の頃

41歳の時には阪神からヘッド兼打撃コーチ就任オファーも遺恨から断っていた

1984年9月23日、37歳で現役を引退した田淵幸一さんは、その後は、TBS(テレビ・ラジオ)で解説者として活動していたのですが、1985年には、早くも、西武の広岡達朗監督の後任監督として噂になります。

しかし、実際には、西武の前コーチの森祇晶さんが後任監督に就任しています。

また、1987年オフには、阪神の新監督に就任した村山実さんからヘッド兼打撃コーチ就任を依頼されたそうですが、1978年に、夜中に呼び出されてトレードを通告された遺恨から、古巣・阪神への復帰は断ったといいます。

43歳の時にダイエー(現・ソフトバンク)の監督に就任

そして、1989年には、ダイエー(現・ソフトバンク)から監督要請されると、当初は、話を聞くだけのつもりだったそうですが、面会した中内功オーナーから、グイッと手を握られ、断れなくなってしまったそうです。

そこで、恩師・根本陸夫さんに相談すると、根本陸夫さんの後押しもあり、ダイエーの監督に引き受けることにしたのだそうです。

43歳の時に監督に就任して最初のドラフト会議で上宮高校の元木大介を1位指名するも断られていた

ただ、前年1988年に南海から買収されたばかりのダイエーは戦力不足で、トレードで補強したくても、交換する選手がいない状況だったため、田淵幸一さんは、監督に就任して最初のドラフト会議では、上宮高校の元木大介さんを1位指名しようと考えたそうです。

そして、スカウトに「絶対大丈夫」とお墨付きをもらっていたこともあり、元木大介さんを1位指名したそうですが・・・

巨人入団を熱望していた元木大介さんには入団を断られてしまいます。


44歳の時には阪神の大野久獲得にも失敗していた

また、田淵幸一さんは、1990年のシーズン開幕前には、阪神の大野久選手獲得のため、直接、中村勝広監督に電話でトレードを申し込むと、中村勝広監督も大いに乗り気で、話はトントン拍子で進むかと思われたそうですが、土壇場で断られてしまったといいます。

ダイエー監督時代の田淵幸一
ダイエー監督時代の田淵幸一さん。

44歳の時にはダントツの最下位に終わっていた

田淵幸一さんは、その後、ようやく、中日の監督で旧友の星野仙一さん頼り、山内和宏投手、小早川幸二選手と、杉本正投手、高島覚投手、広橋公寿選手のトレードが成立するのですが、監督就任1年目の1990年は、ダントツの最下位に終わってしまいます。

44歳の時に広島のトレード要員をうっかり漏らしていた

また、1990年シーズン終了後には、旧友の山本浩二さん率いる広島のトレード要員をうっかり漏らしたことで、大問題に発展し、謝罪会見に追い込まれています。

45歳の時にダイエーの監督を解任されていた

それでも、田淵幸一さんは、監督就任2年目の1991年には5位、3年目の1992年は4位と、一つずつ順位を上げていき、来年こそはAクラスに入るぞ、と燃えていたそうですが・・・

1992年のシーズン途中、3年契約満了後、ダイエーの監督を解任されてしまいます。

(ただ、田淵幸一さんは、妻・有加さんの説得により、辞任を表明したそうです)

田淵幸一の50代の頃

51歳の時に旧友・星野仙一に阪神タイガースのコーチに誘われていた

監督退任後、1993年~2001年、田淵幸一さんは、TBSの解説者として活動していたのですが、2001年12月9日、愛知県豊田市の南山CCで開かれた、旧友の星野仙一さん主催の「星野仙一と愉快な仲間たちのチャリティーゴルフ」に参加すると、

その際、阪神の監督に就任要請されていた星野仙一さんに、阪神のコーチに誘われ、その場で了承したそうです。

実は、田淵幸一さんは、法政大学時代から、コーチとして星野仙一さんを支えることが夢だったといいます。

51歳の時に阪神タイガースのチーフ打撃コーチに就任

こうして、星野仙一さんが正式に阪神タイガースの監督に就任すると、田淵幸一さんは背番号「88」、推定年俸1億円の1年契約で古巣・阪神の1軍チーフ打撃コーチに就任しています。

田淵幸一と星野仙一
田淵幸一さん(左)と星野仙一さん(右)。

57歳の時に18年ぶりのリーグ優勝に貢献していた

田淵幸一さんは、阪神のコーチ時代は、星野仙一監督を立てて「黒子」に徹するほか、「阿吽(あうん)の呼吸」で「怒鳴られ役」も担っていたそうで、これが功を奏したのか、2003年には、18年ぶりのリーグ優勝に貢献しています。

田淵幸一と星野仙一
抱き合う田淵幸一さん(左)と星野仙一さん(右)。


57歳の時に星野仙一とともに阪神を退団していた

そんな田淵幸一さんは、2003年シーズン終了後、星野仙一監督が健康上の理由で退団すると、自身も、

俺は監督と一蓮托生

と、10月31日に退団しています。

(星野仙一監督は、後任監督に田淵幸一さんを推薦していたそうですが、田淵幸一さんは、これを固辞し、後任監督には、守備走塁コーチだった岡田彰布さんが就任しています)

田淵幸一の60代の頃

61歳の時に星野仙一のもとで北京オリンピックのヘッドコーチ兼打撃コーチに就任

2003年10月31日、星野仙一さんと共に阪神を退団した田淵幸一さんは、2004年には、再び、TBS解説者として復帰していたのですが、

2007年には、北京オリンピック野球日本代表の監督に就任した星野さんに誘われ、再び、星野さんのもとでヘッドコーチ兼打撃コーチに就任しています。

(ただ、結果は、4位に終わっています)

田淵幸一と星野仙一
田淵幸一さん(左)と星野仙一さん(右)。

65歳の時に星野仙一に誘われ楽天のヘッド兼打撃コーチに就任するも早々にヘッドコーチ専任となっていた

田淵幸一さんは、2011年には、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督に就任した星野仙一さんに再び誘われ、ヘッド兼打撃コーチに就任しているのですが、

チームの極度の打撃不振から、早々に打撃コーチを解任され、「ヘッドコーチ専任」になっており、この更迭人事には、大きなショックを受けていたといいます。

66歳の時には楽天のヘッドコーチも解任されていた

そして、田淵幸一さんは、翌年の2012年には、ヘッドコーチも解任されています。

(その後、フロント入りの噂が立ったのですが、実際には、田淵幸一さんはフロント入りしておらず、球団内で、星野仙一さんの力が落ちており、田淵幸一さんを守りきれなかったのでは、と言われました)

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田淵幸一の60代(楽天のヘッドコーチ解任後)~70代(現在)

そんな田淵幸一さんは、2013年には、TBSテレビ・ラジオの野球解説者やスポーツニッポンの野球評論家に復帰するほか、タレントとしても復帰しています。

(2018年からはTBSラジオが野球中継から撤退したため、BS-TBSやTBSチャンネルの野球解説者として活動するかたわら、阪神OBとして在阪放送局(朝日放送テレビ・朝日放送ラジオ・テレビ大阪・サンテレビ)のゲスト解説者としても活動しています)

また、2020年1月14日(73歳)には、野球殿堂入り(エキスパート表彰)が発表されると、同年8月18日、東京ドームホテルでの殿堂表彰式において表彰されています。

田淵幸一の殿堂入り
野球殿堂入りを果たした田淵幸一さん。

お読みいただきありがとうございました

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