1954年に巨人(読売ジャイアンツ)に入団すると、1年目から大型遊撃手として新人王に輝くなど活躍し、現役引退後は、1976年のシーズン途中にヤクルトスワローズの監督に就任すると、1978年には、ヤクルトスワローズを球団初のリーグ優勝&日本一に導き、1982年から西武ライオンズの監督を務めると、4年間で3度のリーグ優勝と2度の日本一に導き、西武黄金時代の礎を築いた、広岡達朗(ひろおか たつろう)さん。

今回は、そんな広岡達朗さんの監督時代から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

広岡達朗

「【画像】広岡達朗の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」からの続き

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広岡達朗が30代の頃

35歳の時には渡米しベロビーチでキャンプ中だった巨人軍を陣中見舞いするもスパイ扱いされていた

広岡達朗さんは、1966年、34歳で現役引退後は、

自分が目指す野球は、自分を追い出した巨人よりも正しい

ことを証明するため、本場の野球(メジャーリーグ)を観て勉強しようと、翌年の1967年、35歳の時、渡米したそうですが、

ちょうど、巨人軍もベロビーチでキャンプ中だったため、陣中見舞いしたところ、川上哲治さんにスパイ扱いされ、誰も口を聞いてくれなかったそうで、

広岡達朗さんは、激しい怒りの中、自分を認めさせるためには、巨人を倒すしかないと、この時、巨人への復讐に邁進することを誓ったのだそうです。

(ただ、森昌彦(後に祇晶)選手だけは、広岡さんが滞在するホテルに度々訪ねてくれたそうです)

35歳の時にメジャーリーグを視察し日本とアメリカの大きな違いに気がついていた

また、広岡達朗さんは、メジャーリーグ視察で、実践を観戦する中、アメリカでは、先発投手の順番が固定されており、先発、中継ぎ、抑えの役割が明確だったことや、選手は苦手なことでも監督に指示を出されれば、結果を恐れずに積極的に挑戦し、アピールするなど、日本との大きな違いに気がついたそうです。

35歳の時に自ら直談判してサンケイスポーツの評論家に採用されていた

そんな広岡達朗さんは、帰国後はラジオ関東の野球解説者として活動するほか、自ら直談判してサンケイスポーツの評論家に採用されたそうです。

37歳の時には広島東洋カープの内野手守備コーチとして苑田聡彦選手を外野手から遊撃手に育て上げることに成功していた

すると、1969年、37歳の時には、広島東洋カープの根本陸夫監督に内野守備コーチを要請されたそうで、一度は断ったものの、根本陸夫監督に強く説得されて内野守備コーチに就任すると、

根本陸夫監督に頼み込まれて、苑田聡彦選手を外野手から内野手にするための育成に取り組んだそうですが、いつまでも上達しない苑田聡彦選手さんの守備を見てさじを投げかけていたそうです。

ただ、根本陸夫監督に

おれが責任をとるから辛抱して教えてくれ

と、頼み込まれ、仕方なく、そのまま苑田聡彦選手の指導を続けると、

広岡達朗さんの粘り強い指導の甲斐あって、苑田聡彦選手の守備はレベルアップし、正遊撃手にまで成長したのだそうです。

広岡達朗の40代の頃

45歳の時にヤクルトスワローズの監督に就任

広岡達朗さんは、1974年には、ヤクルトの守備コーチに就任すると、1976年には、ヘッドコーチに昇格し、この年、シーズン途中の6月17日には、荒川博監督が休養したことから、監督代理に昇格。

そして、1977年には、正式にヤクルトの監督に就任しています。

ヤクルトスワローズでは徹底した管理体制を敷いていた

すると、広岡達朗さんは、これまでのファミリー的な雰囲気を一掃し、グラウンドではもちろん、私生活においても、食生活から自由時間まで徹底した管理体制を敷いたそうです。

ヤクルトスワローズ監督では就任1年目でヤクルトを球団史上初のシーズン2位に導いていた

また、広岡達朗さんは、投手陣の強化に取り組み、メジャーリーグのような中4日のローテーション確立を目指して、松岡弘投手、安田猛投手、浅野啓司投手、鈴木康二朗投手、会田照夫投手の5人で先発を回し、

先発投手には中継ぎ起用はさせないこととし、抑えに井原慎一朗投手を起用したそうです。

そして、打撃偏重の風潮を嫌い、守備重視の野球をするため、キャンプから守備走塁を重視した練習メニューと試合方針を打ち出し、1971年にドラフト9位で入団した水谷新太郎選手を正遊撃手に育て上げると、

その甲斐あって、広岡達朗さん率いるヤクルトは、球団史上初のシーズン2位となったのでした。

ヤクルトスワローズ監督では就任2年目に球団史上初のリーグ優勝&日本一を達成

そんな広岡達朗さんは、翌年の1978年、46歳の時には、当時ではまだ珍しかったシーズンオフのウエイトトレーニング導入や、巨人コンプレックスを払拭するための選手の意識改革にも積極的に乗り出すと、

見事、ヤクルトを球団史上初のリーグ優勝に導き、日本シリーズでも、4年連続日本一を狙う阪急ブレーブスを4勝3敗で下し、見事、日本一にも導いたのでした。

1978年ヤクルトリーグ初優勝で胴上げされる広岡達朗
1978年にヤクルト球団初のリーグ優勝に導き、胴上げされる広岡達朗さん。

46歳の時にはヤクルト監督に留任するもフロント側と禍根を残していた

それでも、広岡達朗さんは、日本一になった時点で監督を辞任しようと決めていたそうですが、

球団側から引き止められたそうで、留任交渉の席では、終始、主導権を握り、「勝つための野球」に取り組む姿勢を見せるよう球団側に迫り、球団側がこれを受け入れたことから、現場のことは全面的に任され、球団は協力するという条件で、ヤクルトと新たに3年契約を結んだそうですが・・・

広岡達朗さんの記者会見での発言が球団フロント陣の怒りを買い、禍根を残します。

47歳の時にはシーズン途中で球団と揉めヤクルトを退団

すると、翌1979年、47歳の時には、開幕から主力選手が次々と故障離脱し、8連敗して最下位に沈んでしまったそうで、負けが込むことで、以前からヤクルトナインに溜まっていた、広岡達朗さんの厳しさを全面に出す管理野球に不満が噴出すると、

1979年8月7日には、反広岡派の首脳陣&選手の要求により、佐藤邦雄球団社長から広岡達朗さんに、(選手から不評だった)参謀格の森昌彦ヘッドコーチ、植村義信投手コーチの降格を通告されたそうで、

広岡達朗さんは、球団と揉めに揉めた末、シーズン途中の同年8月29日、森昌彦ヘッドコーチ、植村義信投手コーチとともに、ヤクルトを退団したのでした。

(その後、広岡達朗さんは、1981年9月には、近鉄バファローズと阪神タイガースから監督就任のオファーを受けたそうですが、どちらも最終的には固辞しています)

49歳の時には西武ライオンズの監督に就任すると、ヤクルト時代同様に「管理野球」を徹底していた

その後、広岡達朗さんは、1981年9月、49歳の時には、広島コーチ時代の監督だった根本陸夫さんから西武ライオンズの監督要請を受けると、このオファーを受け、西武ライオンズの監督に就任しているのですが、

ヤクルト時代同様、さっそく、食生活の改善に取り組み、「管理野球」を徹底したそうです。

広岡達朗

広岡達朗の50代の頃

50歳の時には西武ライオンズ監督就任1年目でリーグ優勝&日本一

西武ライオンズの監督に就任した広岡達朗さんは、「管理野球」を徹底するとともに、守備重視の野球を行うと、これが功を奏し、低迷していたベテランの田淵幸一選手や山崎裕之選手が復活。

1982年5月11日に首位に立つと、6月12日には首位から陥落するも、前期終了まで残り6試合の時点で、首位阪急に0.5ゲーム差でぴったり2位につけている状況で、6月20日、南海とのダブルヘッダー第1試合、第2試合ともに勝利し、再び首位となると、前期優勝。

その後、後期優勝の日本ハムとのプレーオフも3勝1敗で制し、球団創設19年で初のリーグ優勝。

さらには、日本シリーズでも、中日ドラゴンズを下し、見事、球団(西鉄時代を含む)24年ぶりの日本一にも輝いたのでした。

1982年日本一になりインタビューされる広岡達朗

51歳の時には西武ライオンズ監督で2年連続日本一

そんな広岡達朗さんは、翌1983年、51歳の時にも、2位の阪急ブレーブスに17ゲーム差を付ける独走で西武ライオンズをリーグ優勝(連覇)に導くと、

古巣・巨人との日本シリーズでも、激闘の末、巨人を制し、西武ライオンズを2年連続日本一に導いています。

1983年日本一になり胴上げされる広岡達朗
1983年、2年連続日本一となり、胴上げされる広岡達朗さん

53歳の時には西武ライオンズ監督で再びリーグ優勝を果たしていた

ただ、1984年には、主力の田淵幸一選手の体調が悪化するほか、山崎裕之選手の打撃の低迷などで、早々に優勝争いから脱落し、結局、このシーズンは3位に終わってしまうのですが、

1985年、53歳の時には、これまで二軍で育ててきた、秋山幸二選手、辻発彦選手、工藤公康投手、渡辺久信投手などの若手選手が活躍し、これまでの寄せ集め選手中心から、生え抜き選手中心のチームとなり、再び、リーグ優勝を果たしています。

53歳の時には西武ライオンズの監督を解任されていた

ただ、広岡達朗さんは、1985年シーズン終了後、監督権限を強化するようフロントに要望すると、これが聞き入れられず、夕刊紙にフロント批判を繰り返したことで、1985年11月8日、5年契約を1年残し、突如、監督を解任されています。

(表向きは健康上の問題として辞任)

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広岡達朗の50代(監督引退後)~90代(現在)

広岡達朗さんは、西武ライオンズ退団後はNHKの野球解説者として活動していたのですが、

その後は、

  • 1988年(56歳)には、「ジャパンスポーツシステム」を設立
  • 1990年(58歳)には、阪神タイガースの臨時コーチ
  • 1994年(62歳)には、千葉ロッテマリーンズのゼネラルマネージャー(GM)に就任(1996年10月8日、解任)

1998年(66歳)から2007年(75歳)までは、「アール・エフ・ラジオ日本」の野球解説者として活動しつつ、その間はスポーツ情報番組のラジオパーソナリティとしても活動しています。

また、2000年代以降は正式な指導者としては活動していませんが、シーズン終了後には読売ジャイアンツの臨時コーチを務めるほか、2012年、80歳の時には、中日ドラゴンズ・東京ヤクルトスワローズの臨時コーチを務めています。

(母校・早稲田大学の指導にも熱心で、特に内野手のスローイングの指導を行っています)

そんな広岡達朗さんは、一時期、中日新聞において「広岡達朗の痛言独論」というコーナーを不定期で受け持っていたのですが、

92歳となる2024年現在も、「週刊ベースボール」で「「やれ」と言える信念」という隔週連載コラムを執筆しつつ、複数のニュースサイトへ記事を寄稿しています。

お読みいただきありがとうございました

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