1935年、26歳の時、「若旦那・春爛漫」で映画デビューすると、以降、二枚目俳優として活躍し、1938年、30歳の時には、「愛染かつら」が空前の大ヒットとなり、不動の人気を博した、上原謙(うえはら けん)さん。
今回は、そんな上原謙さんの、若い頃からの出演作品や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。
「上原謙の生い立ちは?中学時代に父が死去!列車脱線事故で人生が変わっていた!」からの続き
上原謙が20代の時は「若旦那・春爛漫」で映画デビューすると、「愛染かつら」は空前の大ヒットを記録していた
25歳の時に2作目「彼と彼女と少年達」でいきなり主演に抜擢されていた
上原謙さんは、1935年、25歳の時に、清水宏監督の「若旦那・春爛漫」で映画デビューすると、次作「彼と彼女と少年達」では、いきなり主役に抜擢され、
この映画で共演した桑野通子さんと、「アイアイ・コンビ」と呼ばれ、人気を博します。
「彼と彼女と少年達」より。上原謙さんと桑野通子さん。
25歳の時に映画「恋愛豪華版」に出演
そして、同年(1935年)、映画「恋愛豪華版」では、生き生きとした若者を演じ、それまでの映画俳優には見られなかった新鮮な魅力で存在感を放っています。
映画「恋愛豪華版」より。上原謙さんと高杉早苗さん。
27歳の時に映画「有りがたうさん」で人の良いバスの運転手役
また、翌年の1936年、27歳の時には、映画「有りがたうさん」で、伊豆天城のバスの運転手役(主人公)を演じると、その清新な好演が評判となります。
「有りがたうさん」より。上原謙さんと桑野通子さん。
27歳の時に兵役で台湾の部隊に配属されるも原因不明の病気で除隊していた
こうして、映画俳優として順調なスタートを切った上原謙さんですが、1936年、27歳の時には、兵役となり、台湾の部隊に配属されたそうです。
ただ、ほどなくして、原因不明の病を患ったそうで、わずか3ヶ月で除隊となったそうです。
また、上原謙さんは、この年(1936年)、兵役から帰国後に、同じ松竹の女優だった小桜葉子さんと結婚しています。
(翌年の1964年には、長男である俳優の加山雄三さんが誕生しています)
27歳の時に佐分利信と佐野周二と映画「新道」で共演し”松竹二枚目三羽鳥”と称されるようになっていた
そんな上原謙さんは、この年(1936年)には、映画「新道」で、松竹のスター俳優だった佐分利信さんと佐野周二さんの2人と初共演を果たしているのですが、
これをきっかけに”松竹二枚目三羽鳥”と称されて人気を博したのでした。
28歳の時に映画「婚約三羽烏」が大ヒット
また、1937年、28歳の時には、上原謙さんの結婚を押し出した「婚約三羽烏」が大ヒットを記録しているのですが、
この頃、上原謙さん、佐分利信さん、佐野周二さんの3人に、徳大寺伸さん、近衛敏明さん、夏川大二郎さんの3人の人気俳優を加えて、「8クラブ」が結成されると、
毎月、演劇や音楽関係の有識者を呼んで、講演会を開くようになったそうです。
「婚約三羽烏」より。(左から)上原謙さん、佐野周二さん、佐分利信さん。
28歳の時に映画「浅草の灯」でオペラ歌手役
上原謙さんは、1937年、28歳の時には、映画「浅草の灯」でオペラ歌手を演じています。
「浅草の灯」より。
29歳の時に映画「愛染かつら」が空前の大ヒットを記録しスターの座を不動のものにしていた
そんな上原謙さんは、1938年、29歳の時には、田中絹代さんと共演した、男女のすれ違いを描いた映画「愛染かつら」が空前の大ヒットを記録。
上原謙さんのかっこよさに女性たちが熱狂し、上原謙さんはスターの座を不動のものにしたのでした。
「愛染かつら」より。上原謙さんと田中絹代さん。
ただ、上原謙さん本人は、自伝「がんばってます 人生はフルムーン」で、この映画は自分の出演作の中で一番嫌いな映画で、映画の見所である有名な「新橋駅のすれ違い」のシーンについては、ばかばかしく思っていたほか、この映画の脚本を読んだ時には、その理屈では到底考えられないような展開に、役を降りようとさえ思ったことを綴っています。
(ちなみに、ヒロイン役の田中絹代さんとも気が合わなかったのだそうです)
上原謙が30代の時は松竹を退社してフリーとなると一時は仕事がなくなるも「三百六十五夜」が大ヒットしていた
36歳の時に松竹を退社しフリーで活動
また、上原謙さんは、戦後、いつまでも女性中心主義でいく会社の基本方針に不満を抱き、1945年12月、36歳の時には、松竹を退社してフリーになっているのですが、
翌年の1946年は、仕事がなく、「上原謙一座」を結成して、旅巡業を行い、演技の経験を積んだそうです。
39歳の時に市川崑監督作品「三百六十五夜」が空前の大ヒット
すると、1947年からは、映画出演オファーが急増し、1948年、39歳の時には、市川崑監督作品「三百六十五夜」が空前の大ヒットを記録。
そして、その後も、様々な作品で重要な役を演じると、1949年の芸能人長者番付では、堂々の1位に躍り出たのでした。
「三百六十五夜」より。
上原謙は40代の時に「めし」「煙突の見える場所」など名作に出演するも息子の加山雄三が俳優デビューし脇役(父親役)に回るようになっていた
40歳~47歳の時には「めし」「煙突の見える場所」「晩菊」「山の音」「夜の河」など名作に次々と出演
その後、上原謙さんは、
- 1949年(40歳)「異国の丘」
- 1951年(42歳)「めし」
- 1953年(44歳)「煙突の見える場所」
- 1954年(45歳)「晩菊」
- 1954年(45歳)「山の音」
- 1956年(47歳)「夜の河」
など、日本映画史に残る傑作に次々と出演し、演技派俳優として活躍しています。
48歳の時には息子・加山雄三のデビューで主役(二枚目役)が激減し脇役(父親役)に回ることが多くなっていった
そんな上原謙さんは、1957年、48歳の時には、東宝と契約しているのですが、息子の加山雄三さんが俳優デビューすると、大きな息子がいることで、父親像のイメージが強くなり、二枚目役(主役)は激減し、脇役に回るようになっています。
上原謙は50代の時に舞台上でめまいを起こし倒れていた(メニエール症候群)
そんな中、上原謙さんは、1959年、50歳の時には、舞台上で、めまいを起こし(メニエール症候群)倒れてしまいます。
(メニエール症候群とは、聴覚や平衡感覚を司っている内耳がむくむことで引き起こされ、めまいや耳鳴り、吐き気などの症状が起こるそうです)
上原謙が60代の時は妻・小桜葉子が他界するほか投資していたパシフィックパークホテルが倒産し莫大な負債を抱えていた
また、上原謙さんは、1970年、61歳の時には、妻の小桜葉子さんが52歳の若さで病気で他界すると、
ほどなくして、投資していたパシフィックパークホテルが倒産して莫大な負債を抱え、東宝との契約を解除されるなど、不幸が続きます。
(マスコミに叩かれ、気が滅入るような日々を送っていたそうです)
上原謙が70代の時にはアデランスのCM、バラエティ、子供向け特撮ドラマにも出演していた
71歳の時には「フルムーンキャンペーン」のCMで高峰三枝子と温泉につかるシーンでセンセーションを巻き起こしていた
それでも、1980年代初頭、71歳の時には、国鉄(現・JR)の「フルムーンキャンペーン」のCMで、女優の高峰三枝子さんと温泉につかるシーンで共演すると、当時としては、往年の大スターが温泉につかるシーンは珍しく、センセーションを巻き起こします。
「フルムーンキャンペーン」のCMより。上原謙さんと高峰三枝子さん。
また、上原謙さんは、自ら、カツラを着用していると宣言し、男性用カツラのCM「アデランス」に出演するほか、お笑いバラエティ番組にも積極的に出演すると、共演者であるコメディアンのギャグを「わたしもやりたい」と懇願するなど、飾らない庶民的な一面を見せています。
(そんな中、裏方スタッフは、「大スターの上原さんにそこまでさせるのはまずい」と困ったといいますが、上原謙さんは、もともと、ダジャレや冗談が好きだったそうです)
78歳の時には特撮テレビドラマ「超人機メタルダー」で古賀竜一郎博士役
そして、1987年、78歳の時には、特撮テレビドラマ「超人機メタルダー」で古賀竜一郎博士役を演じるなど、子供向け特撮番組にも積極的に出演しています。
「超人機メタルダー」より。
上原謙の死因は急性心不全
また、上原謙さんは、1975年、66歳の時に再婚していたそうですが、1991年6月末、82歳の時に離婚すると、その後は、息子の加山雄三さん宅に身を寄せていたそうです。
ただ、そんな中、体調が思わしくなく、1991年11月23日、風呂場でぐったりしているところを家政婦に発見され、すぐに救急搬送されたそうですが、蘇生することなく、午後3時44分、急性心不全により、81歳で他界されています。
「上原謙の前妻・小桜葉子との馴れ初めは?桑野通子とも交際していた?」に続く
1938年、「愛染かつら」が空前の大ヒットを記録して二枚目スターの地位を確立すると、戦後は、「めし」「煙突の見える場所」「晩菊」「山の音」など、日本映画史に残る名作に次々と出演し、演技派俳優としても高く評価された、上原謙 …