ドラフト1位でヤクルトスワローズに入団すると、巨人とのオープン戦で、いきなり初安打がホームランという輝かしいデビューを果たした、長嶋一茂(ながしま かずしげ)さんですが、

1年目はその後成績が低迷し、2年目はまずまずの成績を残すも、3年目は、新監督に就任した野村克也さんとの確執から、夜はしらふの状態では眠れないほど、精神的に追い詰められていたといいます。

今回は、そんな長嶋一茂さんの若い頃(ヤクルトスワローズ時代)の経歴を時系列でご紹介します。

長嶋一茂

「【画像】長嶋一茂の若い頃は?高校から有望視され大学では1年生から活躍!」からの続き

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長嶋一茂は大学4年生(22歳)の時にドラフト1位でヤクルトスワローズに入団

立教大学で、1年生の時からレギュラーで活躍していた長嶋一茂さんは、大学3年生の春には打率1割7分6厘と調子を落とすも、大学4年生の時には打率3割4分に上昇すると、プロ野球スカウトから注目を浴びるようになり、

1987年の秋季リーグ戦終了時には、全12球団のスカウトが長嶋一茂さんの獲得に動き出したそうで、ドラフトでは、ヤクルトと横浜大洋から1位指名を受け、抽選の結果、ヤクルトが交渉権を獲得し、1988年、22歳の時に、ヤクルトに入団しています。

(長嶋一茂さんが最も希望していたのは、もちろん巨人で、次候補が、東京に本拠地を置くヤクルトと横浜に本拠地を置く横浜大洋だったそうですが、巨人は若手投手の補強を優先して長嶋一茂さんを指名しませんでした)

長嶋一茂

長嶋一茂はヤクルトスワローズ入団1年目(22歳)から一軍扱いも全く緊張していなかった

そんな長嶋一茂さんは、契約日の翌日から、いきなり一軍扱いだったそうですが、一軍選手と一緒の合同自主トレにも全く緊張せず、プロの世界に入っても不安になることはなかったそうで、

プロ野球選手のレベルの高さは恐れるべきものがあったものの、練習すれば追いつけると思っていたといいます。

長嶋一茂はヤクルトスワローズ入団1年目(22歳)の成績はパッとしなかった

その後、長嶋一茂さんは、1988年春に立教大学を卒業すると、アメリカ・アリゾナ州ユマで行われた、ヤクルトの一軍キャンプに合流しているのですが、

同年4月27日の巨人とのオープン戦では、バックスクリーンを直撃する飛距離130メートルのホームランを放ち、初安打がホームランという、華々しいデビュー。

長嶋一茂
1988年、プロ初ヒットがホームランとなった長嶋一茂さん。

ただ、長嶋一茂さんとしては、このホームランに全く手応えを感じていなかったそうで、やはり、思った通り、入団1年目の成績はパッとせず、終わってしまったのでした。

長嶋一茂はヤクルトスワローズ入団3年目(24歳)に野村克也が新監督に就任し嫌がらせを受けるようになっていた

それでも、入団2年目の1989年には、69試合に出場して、ホームラン4本、打率2割5分とまずまずの成績を残したのですが・・・

入団3年目の1990年に、野村克也さんが監督に就任すると、野村克也監督は、長嶋一茂さんの持っている才能を確かめるため、一軍に置くも、

長嶋茂雄さんの息子というだけでプライドが高い長嶋一茂さんを嫌い、様々な嫌がらせをしたといいます。

(野村克也監督は長嶋茂雄さんに嫉妬心を抱いていたと言われています)

長嶋一茂と野村克也
長嶋一茂さんと野村克也監督

また、長嶋一茂さんは、野村克也監督が日課にしていたミーティングの時、皆に義務付けていた「野村ノート」を一人だけつけていなかったそうですが、

その理由は、野村克也監督が、ミーティングの際、長嶋一茂さんのお父さんの長嶋茂雄さんの悪口を堂々と皆の前で言っていたからだといいます。

そして、長嶋一茂さんは、野村克也監督に媚びへつらっていた数人のコーチからも嫌がらせを受けるようになったのだそうです。

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長嶋一茂は26歳の時にドジャースのマイナーリーグの春季キャンプに参加していた

そんな中、やがて、長嶋一茂さんは、そのストレスから、夜はお酒を飲んで酔っていないと眠れない状態にまで精神的に追い詰められてしまったそうで、

このような環境を変えるため、1992年には、アメリカのロサンゼルス・ドジャースのマイナーリーグの春季キャンプに参加したのだそうです。

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