1962年、アメリカのテレビドラマ「ルート66」で主人公のマーティン・ミルナーの吹き替えで人気を博すと、1971年には、深夜番組「パックインミュージック」のMCでたちまちブレイクし、1975年には、自ら企画・出演した映画「トラック野郎」シリーズが大ヒットを記録した、愛川欽也(あいかわ きんや)さん。

そんな愛川欽也さんは、幼い頃から成績優秀で、中学3年生の時には、担任の先生に勧められ、進学校である浦和高校を受験すると見事合格。せっかく良い高校に入れたのだから将来は弁護士になろうと思っていたといいます。

今回は、そんな愛川欽也さんの、生い立ち(誕生から高校時代まで)をご紹介します。

愛川欽也

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愛川欽也のプロフィール

愛川欽也さんは、1934年6月25日生まれ、
東京府東京市豊島区巣鴨(現・東京都豊島区巣鴨)の出身、

身長168センチ、
体重72.5キロ、

血液型はA型、

学歴は、
埼玉県立浦和高等学校中退

ちなみに、本名は「井川敏明」(いかわ としあき)で、愛称は「キンキン」、

命日は2015年4月15日で、80歳で亡くなっています。

愛川欽也が幼い頃は母親に溺愛されて育てられていた

愛川欽也さんは、東京・神田のミルクホールで働いていたお母さんのもと、一人っ子として誕生すると、お母さんが年をとってから産んだ子供だったことから、溺愛されて大切に育てられたそうです。

(愛川欽也さんのお父さんは、印刷会社を経営する妻子ある男性で、お母さんはお父さんの愛人だったそうです)

愛川欽也は幼い頃から成績優秀で周囲に流されず自分の意志で行動していた

愛川欽也さんは、幼い頃から成績優秀で、近所の同年代の男の子たちが夢中になっている遊びなどには、まるで興味がなく、喫茶店で大人のようにコーヒーを注文して飲むことが好きな、自分の意志で行動する子供だったそうです。

愛川欽也は10歳の時に学童疎開させられるも空腹に耐えかね一人で東京に戻っていた

そんな中、愛川欽也さんは、太平洋戦争中の1944年、10歳の時、戦争ムードが濃くなったことから、信州に学童疎開させられたそうですが、食べ物もろくにない疎開生活は辛く、

ついに疎開先を脱出し、一人で汽車に乗って東京の実家に帰ると、お母さんと再会を喜び合い、お互い、もう二度と離れ離れにならないと心に誓ったのだそうです。

愛川欽也は10~11歳の時に埼玉県⇒茨城県に疎開していた

しかし、しばらくすると、東京は空襲が激しくなったことから、愛川欽也さんは、今度は、再び一人で埼玉県に疎開することになったそうですが、

それから3ヶ月も経たないうちに、息子と離れていることに耐えられなくなったお母さんが迎えに来て、東京に戻ったのだそうです。

ただ、東京の空襲は激しさを増しており、自宅に住むことができなくなったため、今度は、お母さんと2人でお母さんの遠い親戚を頼って茨城県に疎開することになったそうですが、

疎開先の家では、つい、味噌汁がおいしくて食べ過ぎてしまい、嫌味を言われるなど肩身の狭い思いをしたそうです。

愛川欽也は11歳の時に秋田県に疎開するも快適とは程遠い生活だった

そして、1945年8月15日、11歳の時、疎開先の茨城県で終戦を迎えたそうですが、東京の自宅は焼失してしまったことから、今度は、秋田県のお母さんの遠い遠い親戚の家に居候することになったそうです。

ただ、ここでは、住まわせてくれた部屋が牛や鶏の臭いで激臭だったほか、(愛川欽也さんは動物が嫌いだったのですが)鶏の世話を命じられたり、風呂は大家族11人全員が入った後の一番最後だったりと、快適とは程遠い生活を余儀なくされたのだそうです。

愛川欽也は11歳の時に宿屋を営む友達の親に部屋を借りる交渉をして成功していた

その後、愛川欽也さんは、自らの不注意で鶏を泥棒に盗まれるなど、ますます肩身の狭い思いをするようになったことから、居候生活に我慢できなくなったそうで、

宿屋を営んでいる友達の親に一番安い部屋を貸してくれるように交渉し、ようやく、お母さんと2人だけで住めるようになったそうです。

愛川欽也は中学3年生の時に進学校の浦和高校を受験して合格し、将来は弁護士になろうと考えていた

そんな愛川欽也さんは、中学生時代も成績がトップで、先生やクラスメイトたちから一目置かれていたそうで、

中学3年生の時には、担任の先生に、埼玉県の浦和にある進学校、浦和高校を受験するように勧められて、浦和高校を受験すると、見事、合格したそうです。

そこで、愛川欽也さんは、せっかく良い高校に入ったのだから、卒業後は、良い大学に入って、弁護士になろうと思ったのだそうです。

(愛川欽也さんは、中学1~2年生の頃、秋田県から埼玉県の大宮に引っ越していました)

愛川欽也は高校1年生の時にフランス映画に魅了され俳優を志すようになっていた

こうして、浦和高校に進学した愛川欽也さんですが、入学したその年の秋、学校へ通う道の途中に、新しく映画館ができたことから、何気なく入ったところ、そこで観たフランス映画にすっかり魅了されてしまったそうで、

将来は、弁護士ではなく、ジャン・ギャバンのような俳優になりたいと思うようになったそうで、やがて、「自立劇団表現座」で大道具・小道具などの手伝いをするようになったのだそうです。

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愛川欽也は高校2年生の時に「俳優養成所」の試験を受けるも不合格を確信していた

そんな愛川欽也さんは、高校2年生の時には、本格的に俳優を目指すべく、「俳優養成所」の試験を受けたそうですが・・・

朗読、容姿、パントマイムどれもダメで、不合格を確信し、絶望的な気持ちに襲われたといいます。



「【画像】愛川欽也の若い頃が凄い!デビューからの経歴を時系列まとめ!」に続く

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