1971年にヤクルトスワローズのヘッドコーチに就任すると、その後、7球団で監督やコーチを歴任して、特に打撃コーチとして才能を発揮し、若松勉さん、八重樫幸雄さん、ラルフ・ブライアントさん、岩村明憲さん、掛布雅之さん、岡田彰布さん、宮本慎也さんほか、数多くの選手を名選手に育て上げた、中西太(なかにし ふとし)さん。

今回は、そんな中西太さんの若い頃(監督・コーチ時代)の活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

中西太

「【画像】中西太の若い頃が凄い!高校からプロ野球現役時代までの経歴を時系列まとめ!」からの続き

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中西太が30代の時には、若松勉、八重樫幸雄、ブライアント、岩村明憲を指導

38歳の時にはプロ入りを拒否する若松勉の素質を見抜き説得してヤクルトに入団させていた

中西太さんは、1970年、1年だけTBSの解説を務めると、1971年、38歳の時には、ヤクルト・アトムズ(現・ヤクルト・スワローズ)のヘッドコーチに就任し、その後、日本ハム、阪神、近鉄、巨人、ロッテ、オリックスと7球団で監督やコーチを歴任しているのですが、

選手の長所を伸ばす指導法に定評があり、特に、打撃コーチとして、抜群の手腕を発揮し、数多くの選手を名選手に育て上げています。

ヤクルトの若松勉さんもそのうちの一人で、小柄なせいで自信がなく、プロ入りを拒否する若松勉さんの素質を見抜いて説得し、若松勉さんにプロ入りを決意させると、プロ入り後は、(全員でやっていたはずの練習が日を追うごとに離脱者が出て、最終的に)マンツーマンの指導により、若松勉さんを大打者に育て上げています。

中西太と若松勉
中西太さん(左)と若松勉さん(右)。

八重樫幸雄のオープンスタンスを発案していた

そんな中西太さんは、1983年には、ヤクルトスワローズのヘッドコーチ兼打撃コーチに就任すると、強肩強打で期待されるも長い間くすぶっていた八重樫幸雄さんのバッティングフォームを、メガネがネックになっているとして、オープンスタンスにするように指導。

すると、八重樫幸雄さんは、この年(1983年)、97試合で、16本塁打、45打点を記録、1984年には、プロ15目にして、ついにレギュラーの座を獲得して規定打席に到達するほか、自己最多の、18本塁打、58打点を記録、1985年には、打率3割4厘(リーグ打撃成績10位)、13本塁打を記録して、念願のベストナインにも選出されています。


八重樫幸雄さんのオープンスタンス。

ラルフ・ブライアントを「三振王」から「本塁打王」に育て上げていた

そんな中西太さんは、1988年には、近鉄で打撃コーチをしているのですが、仰木彬監督とともに、中日二軍を視察した際、二軍でくすぶっていたラルフ・ブライアント選手を見出すと、仰木彬監督にラルフ・ブライアント選手をとるように進言。

同年6月27日、ラルフ・ブライアント選手を金銭トレードで獲得すると、中西太さんは、ラルフ・ブライアント選手にマンツーマンレッスンをし、「三振王」から、本塁打王3回、打点王1回を記録する、名打者に育て上げています。

中西太
ラルフ・ブライアント選手(右)を笑顔で迎える中西太さん(中央)と仰木彬監督(左)。

二軍選手だった岩村明憲をひと目見て素質を見抜いていた

また、中西太さんは、1998年、ヤクルトスワローズの臨時コーチを務めていた際には、二軍のグラウンドで、岩村明憲選手をひと目見て素質を見抜き、指導を開始すると、岩村明憲選手は、みるみるうちに打撃の才能を開花させています。

(中西太さんは、岩村明憲選手には、技術的なことだけではなく、指導者としての心構えも教えたそうです)

中西太と岩村明憲
岩村明憲選手(左)を指導する中西太さん(右)。

中西太が40代の時は日本ハムと阪神の監督を務めるも成績は残せなかった

41歳の時に日本ハムの初代監督に就任するも2年連続最下位で解任されていた

そんな中西太さんは、1974年、41歳の時には、日本ハムの初代監督に就任しているのですが(日本ハムが日拓ホームフライヤーズを買収)・・・

2年連続最下位だったほか、選手たちが中西太さんの采配に反発したことから、1975年には解任されています。

47歳の時に阪神タイガースの監督に就任すると1年で成績不振を理由に突然辞意を表明するも最終的には続投

また、中西太さんは,1979年には、阪神タイガースの一軍打撃コーチに就任すると、翌1980年5月15日(47歳)には、ドン・ブレイザー監督退団と同時に新監督に就任するのですが、シーズン終盤には、成績不振を理由に、突然、辞意を表明。

そんな中、球団側に引き止められるも、中西太さんの辞意は固かったそうですが・・・

1980年10月14日、小津正次郎阪神球団社長との会談後は、一旦、態度を保留。

そして、1980年10月16日、小津正次郎阪神球団社長と2度目の会談後には、続投が決定しています。

阪神監督時代の中西太
阪神監督時代の中西太さん(中央)。

実は、中西太さんと同郷(香川県)の田中隆造オーナー(阪神電鉄社長)の強い要望があり、中西太さんは、断りきれなかったといいます。

江本孟紀と折り合いが悪かった

こうして、中西太さんは、田中隆造オーナー(阪神電鉄社長)の強い要望により、辞意を撤回し、阪神の監督を続投することになったのですが・・・

実は、監督を継続する交換条件として、コーチ時代から折り合いの悪かった江本孟紀投手のトレードを要請していたといいます。

それでも、結局、江本孟紀さんはトレードされず、シーズンを迎えると、1981年8月26日、ヤクルト9回戦(甲子園)で、とうとう、事件が起きてしまいます。

中西太

48歳の時に阪神の監督を辞任

1981年8月26日、ヤクルト9回戦(甲子園)で、江本孟紀さんがピンチの場面でしきりにベンチにサインを出すも、中西太さんがベンチ裏に隠れてしまい、

これに腹を立てた、江本孟紀さんが、

ベンチがアホやから、野球がでけへんわ!

と、言い、その後、その責任を取って阪神を退団しているのですが、

中西太さん自身も、全日程終了後の10月14日、阪神の監督を辞任したのでした。

中西太
阪神を退団することになり、感極まって涙を流す中西太さん。

中西太が50代の時は仰木彬監督のもとヘッドコーチとして近鉄バファローズをリーグ優勝に導いていた

それでも、中西太さんは、1985年、52歳の時には、近鉄バファローズのヘッドコーチだった仰木彬さんの要請で、近鉄の打撃コーチに就任すると、その後、1987年に仰木彬さんが近鉄の監督になると、1989年、56歳の時には、仰木彬監督のもとヘッドコーチに就任。

すると、同年には、見事、近鉄バファローズをリーグ優勝に導いています。

近鉄リーグ優勝
仰木彬監督(左)と中西太さん(右)。

中西太は60代の時にも仰木彬監督のもとオリックスブルーウェーブをリーグ優勝&日本一に導いていた

また、中西太さんは、1995年、62歳の時にも、再び、仰木彬監督のもと、オリックスブルーウェーブでヘッドコーチに就任すると、1995年、1996年とリーグ2連覇(1996年には日本一)を達成しています。

中西太と仰木彬
中西太さん(左)と仰木彬監督(右)。

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中西太の60代(オリックス退団以降)~90歳(死去)

中西太さんは、オリックス退団後も、様々な球団で「特別コーチ」「臨時コーチ」を務めていたのですが、1999年、66歳の時には、当時、ヤクルトの監督を務めていた若松勉さんの依頼により、バッティングアドバイザーに就任しています。(2001年まで)

そして、バッティングアドバイザーと並行して、2000年、67歳の時には、4度目の日刊スポーツ評論家となると、2002年(69歳)からは評論活動に専念しています。

また、中西太さんは、2007年2月、74歳の時には、メジャーリーグに挑戦する愛弟子・岩村明憲さんの自主トレを手伝い、中西太さん自らバッティングピッチャーとして登板しており、岩村明憲さんも驚くほど、元気だったといいます。

そんな中西太さんは、2018年3月、84歳の時には、高倉照幸前会長の後を受けて「ライオンズOB会」会長に就任すると、2019年4月2日にはライオンズ埼玉移転40周年を記念して、メットライフドームでのパ・リーグ本拠地開幕戦で始球式を務め、元気な姿を見せていたのですが・・・

2023年5月11日、心不全のため、90歳で他界されています。

始球式
2019年4月2日、始球式を務める中西太さん。

お読みいただきありがとうございました

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