1960年、「岩波映画製作所」に入社すると、以降、ジャーナリストとして60年以上活動し、2024年、90歳の現在も、現役ジャーナリストとして活躍中の、田原総一朗(たはら そういちろう)さん。

今回は、そんな田原総一朗さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を、会社員時代から時系列でまとめてみました。

田原総一朗

「田原総一朗の生い立ちは?軍国少年だった!中学高校で作家を目指すようになっていた!」からの続き

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田原総一朗が10代の時は「交通公社」で勤務するもダメ社員だった

19歳の時(入社1年)ミスを連発して切符売り場から定期券売り場に異動させられていた

田原総一朗さんは、1953年、18歳の時に、「交通公社」に入社すると、まずは、東京駅前の丸ビルの案内所の窓口で切符や周遊券を売る仕事をすることになったそうですが、

特急の番号を誤って書いてダブルブッキングのクレームが来たり、知らない路線や駅がたくさんあって先輩に聞くたびに馬鹿にされたりしたそうで、会社に行くのが嫌になり、仮病を使って休んだこともあったそうです。

また、ミスを連発したせいか、入社1年で、定期券係に異動させられたそうです。

19歳の時に不正使用できる定期券をもらい異動させられていた

そんな田原総一朗さんは、定期券売り場でも、書き損じた(不正使用できる)定期券をもらい、またしても、別の部署に異動させられたそうですが、そこは、使えない社員のたまり場だったといいます。

19歳~20歳の時に文学賞に応募するも落選続きだった

それでも、田原総一朗さんは、早稲田大学第2文学部(夜間学部)に入学すると、昼間、「交通公社」で働きながら、出版社が主催する文学賞受賞を目指し、せっせと小説を書いていたそうですが・・・

文学賞はおろか、同人誌でも褒められることはなく、挙げ句の果てには、同人誌の先輩から、文才がないことを度々指摘され、落ち込んだそうです。

田原総一朗が20代の時は「岩波映画製作所」に入社すると当初は失敗続きも”ヌーヴェルヴァーグ”風に編集した作品が好評を博していた

20歳の時に「太陽の季節」と「死者の奢り」を読んで作家になることを断念していた

そんな中、田原総一朗さんは、1954年、20歳の時には、石原慎太郎氏の「太陽の季節」と大江健三郎氏の「死者の奢り」の2作品を読んだそうですが、衝撃を受け、ついに、作家になることを断念したのだそうです。

21歳の時にジャーナリストを目指し早稲田大学第1文学部に入り直す決意をしていた

その後、田原総一朗さんは、ジャーナリストを目指すべく、早稲田大学第1文学部に入り直す決心をし、1955年12月、21歳の時、「交通公社」を退職して、受験勉強に専念すると、見事、合格したそうで、下宿代と実家へ仕送りするために家庭教師(塾)のアルバイトで稼いだそうですが・・・

肝心のジャーナリストになるための、マスコミ関係の会社の就職試験は、ことごとく不合格だったそうです。

26歳の時に「岩波映画製作所」に入社

そんな中、11社目となる「岩波映画製作所」の入社試験では、投げやりになっていたこともあり、一次試験では、「岩波映画製作所」の制作した仏像の映画を徹底的に批判するほか、最終面接では、会社に昼食を要求したりもしたそうですが、受け入れられ、しかも、見事、合格したそうで、

1960年4月、26歳の時、「岩波映画製作所」に入社したのだそうです。

26歳の時に撮影部に配属され撮影助手として働き始めるも失敗の連続だった

すると、田原総一朗さんは、「岩波映画製作所」では撮影部に配属され、大阪府堺市の建設現場で工場建設の過程を記録する、PR映画の撮影(カメラ)助手として働き始めたそうですが、

高価なカメラを落としそうになったり、フィルムがきちんと装塡できておらず、めちゃくちゃに絡まったりするなど、失敗の連続だったといいます。

26歳の時に撮影助手を降ろされテレビ番組「たのしい科学」のカメラマン・藤瀬季彦の助手として働き始めていた

そんな田原総一朗さんは、入社から50日足らずで、撮影助手を降ろされたそうで、

仕事がなくブラブラしているところ、テレビ番組「たのしい科学」のカメラマン・藤瀬季彦さんに声をかけられ、藤瀬季彦さんのアシスタントとして働き始めたそうですが、

仕事はというと、来る日も来る日も、水に入れたシャーレにスポイトでミルクを落とす、というものだったそうです。

26歳の時「たのしい科学」では、ポリオ(小児麻痺)をテーマにシナリオを書き演出も担当していた

しかし、やがて、「たのしい科学」では、ポリオ(小児麻痺)をテーマにシナリオを書くことになると、東京大学医科学研究所の研究者からポリオウイルスを撮影したフィルムを借りることに成功するなど、順調に企画は進み、

さらには、演出家が病気になったことで、演出も担当することになり、この千載一遇のチャンスに、”ヌーヴェルヴァーグ”風に撮影することを思いついたのだそうです。

26歳の時に”ヌーヴェルヴァーグ”風に編集した作品が放送され好評を博していた

ただ、”ヌーヴェルヴァーグ”風に撮影しようと、手持ちのカメラで撮影すると、画面がぶれてしまい、シャーレや試験管などの撮影には使えず、かと言って、撮り直すこともできなかったことから、田原総一朗さんは、責任を取って会社を辞める決心をしたそうで、

親友の清水邦夫さんにそのことを打ち明けると、どうせ辞めるなら自分で編集してみればどうかと言われたことから、清水邦夫さんのアドバイスに従い、自分でフィルムを編集すると、試行錯誤の末、”ヌーヴェルヴァーグ”風に編集することに成功したのだそうです。

すると、田原総一朗さんが編集した作品は、プロデューサーに気に入られたそうで、番組にして放送されると、好評を博したそうで、このことがきっかけとなり、田原総一朗さんは、演出家として仕事をすることになったのだそうです。

20代の時に他のテレビ局でも番組の構成のアルバイトも始めるようになっていた

その後、田原総一朗さんは、「岩波映画製作所」だけではなく、他のテレビ局でも番組の構成のアルバイトを始めたそうで、やがて、テレビのいい加減さやインチキ臭さに驚くも、そこに魅力を感じるようになったのだそうです。

29歳の時に「東京12チャンネル」に入社

そんな中、田原総一朗さんは、1963年、29歳の時には、プロデューサーの渡貫敏男さんから、翌年の1964年4月に開局する予定になっていた「東京12チャンネル」への転職を勧められ、形だけの入社試験を受けて「東京12チャンネル」に入社したそうです。

29歳の時に安部公房の自宅前で2日間張り込んでドラマの書下ろしを取り付けていた

すると、早速、田原総一朗さんは、開局記念番組として、当時、売れっ子作家だった安部公房氏の書き下ろしのSFドラマをやることを思い立ったそうで、

電話で執筆を依頼すると、断られてしまったそうですが、安部公房氏の自宅前に2日間張り込み、ドラマを書き下ろしてもらうことを取りつけたそうです。

29歳の時に「東京12チャンネル」開局記念番組「こんばんは21世紀」が高視聴率を記録

その後、田原総一朗さんは、安部公房氏が希望する、フランキー堺さんと加賀まりこさんの出演も取り付け、1964年4月12日、無事、「東京12チャンネル」開局記念番組「こんばんは21世紀」が放映されると、

視聴率は2.8%を記録し、当時、ゴールデンタイムに放映された「東京12チャンネル」の番組の中でトップの視聴率を記録したのだそうです。

田原総一朗が30代の時は「未知への挑戦」「ドキュメンタリー青春」「『わたしたちは・・・』~カルメン・マキの体験学入門」を手掛けていた

30歳~31歳の時に「未知への挑戦」シリーズで成功を収めるも同僚たちによる妬みから降板させられていた

そんな田原総一朗さんは、1964年~1965年(30歳~31歳)の時には、ドキュメンタリー番組「未知への挑戦」シリーズを次々と手掛けると、様々な賞を受賞するなど、成功を収めるのですが・・・

その妬(ねた)みから同僚たちに陥れられ、「未知への挑戦」を降板させられてしまったそうです。

32歳の時に過激なドキュメンタリー作品「ドキュメンタリー青春」を手掛けていた

それでも、田原総一朗さんは、1966年、32歳の時には、「東京12チャンネル」の「報道部」に移籍し、特別少年院の少年が出所して更生するまでを描いた、過激なドキュメンタリー作品「ドキュメンタリー青春」

  • 「出発(その一)~少年院を出たMの場合~」(1968年11月17日放送)
  • 「出発(その二)」(1968年11月24日放送)

を、手掛けると、無事、放送されたそうですが、


後に、少年から恐喝されるなどのトラブルに巻き込まれてしまったといいます。

35歳の時にカルメン・マキに詩の内容通りの同棲生活をさせていた

それでも、田原総一朗さんは、その後も、過激なドキュメンタリーを撮影しようと、1969年、35歳の時には、「『わたしたちは・・・』~カルメン・マキの体験学入門」(1969年2月2日に放送)を手掛けているのですが、

当時、まだ無名の劇団員だったカルメン・マキさんに、マキさん自身が書いた詩の内容通り、同棲生活をさせたといいます。

田原総一朗が40代の時は報道局から制作局へ左遷され、最終的には「東京12チャンネル」を退職させられていた

40歳の時にNHKでディレクターが解雇された問題で朝日新聞の取材に答え左遷されていた

また、田原総一朗さんは、1974年、40歳の時には、NHKのディレクターだった龍村仁さんがNHKに解雇された問題を取り上げ、龍村仁さんに密着取材したドキュメンタリー「あるテレビディレクターの投げた波紋」も制作したそうですが・・・

NHKからのクレームで、放送が中止されたうえ、この事件を嗅ぎつけた朝日新聞社の取材に答えたことで、報道局から制作局へ左遷されてしまいます。

42歳の時にノンフィクション「原子力戦争」を連載

それでも、田原総一朗さんは、制作局では、仕事がなかったことから、空き時間を利用し、今度は、三菱重工の社員から受け取った内部告発の手紙をもとに、関電美浜原発の隠されたトラブルについて書き始めると、

月刊誌「展望」(筑摩書房)で1976年1月号から4回に渡って、「原子力戦争」として連載し、国会でも取り上げられ、大きな話題となっています。

42歳の時に「電通」のCR作戦を暴露して「東京12チャンネル」を退職させられていた

そして、その後も、「東京12チャンネル」のスポンサーをしていた大手広告代理店「電通」が反原発の住民運動に対抗するCR作戦を仕切っていることを暴露すると・・・

「電通」は、「東京12チャンネル」に圧力をかけてきたそうで、ついに、田原総一朗さんは、「東京12チャンネル」を退職させられたのだそうです。

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田原総一朗の現在は「激論!クロスファイア」に出演するなど90代にして現役

その後、田原総一朗さんは、フリーとなり、ジャーナリストして活動すると、政治、ビジネス、科学技術、と幅広い分野で執筆活動を続け、やがて、政治関係をメインに執筆活動するようになると、

テレビでは、1987年(53歳)から2024年9月(90歳)まで「朝まで生テレビ!」、1989年4月(55歳)から2010年3月(76歳)まで「サンデープロジェクト」の討論コーナーの司会を務め、

90歳の2024年現在も、2010年4月(76歳)から続いている、BS朝日の「激論!クロスファイア」に出演するほか、著書「全身ジャーナリスト」を出版するなど、現役で活動しています。

田原総一朗


お読みいただきありがとうございました

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