1967年2月、20歳の時、「ザ・タイガース」として1stシングル「僕のマリー」でデビューするも全く売れず、その後、地道なライブ活動を続けると、

同年5月にリリースした2ndシングル「シーサイド・バウンド」が40万枚を超える大ヒットとなり、その後も、「君だけに愛を」などヒット曲を連発しブレイクした、岸部一徳(きしべ いっとく)さん。

今回は、そんな岸部一徳さんの、若い頃(ベーシスト時代(「サリーとプレイボーイズ」~「ファニーズ」~「ザ・タイガース」~「PYG」~「井上堯之バンド」)から俳優転向まで)の経歴を時系列でご紹介します。

岸部一徳

Sponsored Link

岸部一徳は19歳の時に沢田研二らと「ファニーズ」を結成

岸部一徳さんは、1965年、遊び仲間だった、瞳みのるさん、森本太郎さん、加橋かつみさんと共に「サリーとプレイボーイズ」を結成すると、

翌1966年には、別のバンドで歌っていた沢田研二さんの歌唱力に惚れ込み、沢田研二さんをボーカルとしてスカウトしたそうで、

これををきっかけに、バンド名を「ファニーズ」へと改名し、プロを目指して本格的な活動を開始したそうです。

そして、猛練習の末、関西のバンドマンにとって憧れの舞台であった、大阪・難波のジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属オーディションに合格すると、週2回の、ワンステージ30分、1日5回演奏するステージ契約を勝ち取り、

ビートルズやローリング・ストーンズなどの楽曲を演奏して、瞬く間にファンクラブができるほどの人気を博したそうで、

(関西で圧倒的な人気を誇ったそうです)

同年の「全関西エレキバンドコンテスト」でも、見事、優勝したといいます。

「ファニーズ」時代の岸部一徳
「ファニーズ」(左から)森本太郎さん、加橋かつみさん、瞳みのるさん、沢田研二さん、岸部一徳さん。

岸部一徳は19歳の時に「ファニーズ」として「渡辺プロダクション」のオーディションに合格

そんな「ファニーズ」は、同年(1966年)、岸部一徳さんの提案で、大阪・西成のアパート「明月荘」で5人での共同生活を始め、劣悪な住環境ながらも音楽に明け暮れていると、

憧れの存在であった「ザ・スパイダース」の田邊昭知さんから東京進出を勧められたといいます。

ただ、これは、具体的な話に進展しなかったそうですが、その後、ジャズ喫茶「ナンバ一番」で共演した内田裕也さんからスカウトされたそうで、

今度は、リーダーの瞳みのるさんが東京へ出向き、内田裕也さんに渡辺プロダクションを紹介してもらう約束を取り付けると、同年10月、「ファニーズ」は、「ナンバ一番」で行われた渡辺プロダクションのオーディションに、見事、合格したのだそうです。

岸部一徳は20歳の時に「ザ・タイガース」として「シーサイド・バウンド」が40万枚を超える大ヒット

こうして、岸部一徳さんたち「ファニーズ」のメンバーは、1966年11月、大勢のファンに見送られて京都を発つと、

(新幹線に慣れていなかったことから、「ひかり」と間違えて全駅停車の「こだま」に乗ってしまったそうで、東京到着は予定よりも大幅に遅れてしまったそうです)

上京後は、作曲家のすぎやまこういち氏により、大阪出身であることにちなんで「ザ・タイガース」(プロ野球の阪神タイガースより)と改名され、リーダーも瞳みのるさんから岸部一徳さんへと変更されて、

1967年2月、ファーストシングル「僕のマリー」でデビューしたそうですが・・・

売上はパッとしなかったといいます。

「僕のマリー」
「僕のマリー」

ただ、内田裕也さんのバックバンドを務めながら地道にライブ活動を続けると、同年3月頃には、日劇ウェスタンカーニバルへの出演をきっかけに人気が爆発したそうで、

同年5月に発売した2枚目のシングル「シーサイド・バウンド」が40万枚を超える大ヒットを記録すると、その後も「君だけに愛を」などヒットを連発し、グループ・サウンズの頂点に上り詰めたのでした。

「シーサイド・バウンド」
「シーサイド・バウンド」

岸部一徳が20歳の時には「ザ・タイガース」のメンバー間で溝が生じ始めていた

ちなみに、岸部一徳さんら「ザ・タイガース」は、上京してからは、マネージャーの中井國二さんが、兄のような存在として活動をサポートしてくれていたそうで、そんな中井國二さんの情熱的な指導やサポートの甲斐あり、空前の大ヒットを連発したそうですが、

その一方で、過密スケジュールに加え、熱狂的なファンが合宿所に押し寄せてきて、プライバシーが確保できなくなったそうで、そんなストレスの中、次第にメンバー間で溝が生じ始めたといいます。

岸部一徳は「ザ・タイガース」の中では中立的な立場で聞き役に徹していた

特に、独自の芸術性を追求し、事務所主導の活動に疑問を抱く加橋かつみさんと、プロとして事務所の意向に忠実な沢田研二さんは激しく衝突し、1968年1月27日には、「渋谷公会堂」の楽屋で、ついに殴り合いにまで発展したそうで、

その後、二人は口を聞かなくなり、1968年4月頃には、加橋かつみさんが、「ザ・タイガース」から脱退する意向を固めたといいます。

ちなみに、リーダーの岸部一徳さんは、険悪な空気の中、常に中立を保ち、メンバーの聞き役に徹していたそうで、

瞳みのるさんは、そんな岸部一徳さんを、

(主役が)自分の座を脅かさない安心感のある存在

と、サッカーでいえば、シュートを打つフォワードではなく、絶妙なアシストを送るミッドフィールダーのような存在だったと語っています。

岸部一徳は22歳の時に瞳みのるの失踪を思いとどまらせていた

そして、ついには、1969年3月、「ザ・タイガース」の音楽性に疑問を抱き続けていた加橋かつみさんが、レッスン中に突如姿を消したそうで、当初は自発的な「失踪」と報じられたのですが・・・

実は、事務所である「渡辺プロダクション」が、加橋かつみさんを脱退させることによる人気低下を恐れて仕組んだ”強制的な隔離・脱退劇”であったことが判明し、世間に大きな衝撃を与えます。

しかも、この加橋かつみさんの脱退劇については、メンバーも一切知らされていなかったことから、メンバーは、加橋かつみさんと「渡辺プロダクション」に深刻な不信感を抱くようになったそうで、

特に、加橋かつみさんと親しかったという瞳みのるさんは、あまりのショックから自身も海外への失踪を企てたといいます。

(これは、異変に気づいた岸部一徳さんが必死に説得して、なんとか思いとどまらせたそうです)

こうして、この事件をきっかけにメンバー間の絆と事務所への信頼が修復不可能なまでに損なわれた「ザ・タイガース」は、かつての輝きを失い、もはや解散を待つだけの状態になったのでした。

岸部一徳は24歳の時に沢田研二や萩原健一らを誘い「PYG」を結成

また、1960年代末頃からグループ・サウンズ(GS)ブームが終焉していったこともあり、その後、「ザ・タイガース」は、事務所による”沢田研二さんのソロ売り出し”が露骨になり、「ザ・タイガース」はまるで沢田研二さんのバックバンドのような扱いとなったそうで、

「ザ・タイガース」は、1971年1月、武道館でのコンサートを最後に解散したのでした。

ただ、この頃には、岸部一徳さんは、来るべき「ニュー・ロック」の時代を見据え、既に、「ザ・テンプターズ」の萩原健一さんや「ザ・スパイダース」の井上堯之さんら他バンドにも声をかけ、新規プロジェクトを画策していたそうで、

「ザ・タイガース」解散後、沢田研二さんもこの新規プロジェクトに誘うと、

沢田研二さんも、バンドへのこだわりを捨てていなかったことから、

サリー(岸部一徳さん)がいてくれるなら

と、承諾したそうで、

1971年、日本初の本格的なロックバンド「PYG」を結成したのでした。

「PYG」
「PYG」。(左から)沢田研二さん、井上堯之さん、大口広司さん、萩原健一さん、岸部一徳さん、大野克夫さん。

岸部一徳は24歳の時に「PYG」始動も「渡辺プロダクション」への所属を余儀なくされ硬派なロックファンから猛バッシングを浴びていた

こうして、本格的なロックを追求すべく、沢田研二さんや萩原健一さんらと共に「PYG」の活動を開始しようとした岸部一徳さんですが・・・

沢田研二さんを手放したくない「渡辺プロダクション」は、「PYG」が「渡辺プロダクション」に所属することを条件に独立を認め、沢田研二さんと萩原健一さんをメインに売り出したそうで、

「反体制」を掲げる硬派なロックファンからは、「商業主義の象徴」と見なされて、「GS(グループサウンズ)の寄せ集め」「まがいもの」などと、猛烈なバッシングを浴び、

ライブでも、「帰れコール」が鳴り響き、ステージには、石、トマト、空き缶などが投げつけられたほか、客席では、ツインボーカルを務めた沢田研二さんと萩原健一さんのファン同士が妨害し合うなど、大混乱となったのだそうです。

岸部一徳は28歳の時に「井上堯之バンド」を脱退しミュージシャンも廃業

そんな中でも、「PYG」は、シングルやアルバムをリリースするなど活動を続けていたそうですが、沢田研二さんと萩原健一さんのソロ活動が本格化したことで、1972年には、自然消滅。

その後、岸部一徳さんは、沢田研二さんと萩原健一さん以外のメンバーである、井上堯之さん、大野克夫さん、原田裕臣さん(大口広司さんは脱退)とともに「井上堯之バンド」を結成すると、

沢田研二さんのバック演奏や、萩原健一さん主演のテレビドラマや映画のサウンドトラックを中心に活動を続けていたのですが、1975年6月19日には、「井上堯之バンド」を脱退すると共に、ミュージシャンを廃業。

岸部一徳さんは、ミュージシャンを廃業した理由について、表向きの理由は、「才能への不安」や「家庭を持つ前の決断」と語っているのですが、商業主義に翻弄された日々に嫌気が差したのでは、とも考えられています。

(どこまでも謙虚な岸部一徳さんですが、実は、その実力は世界レベルだったそうで、来日した伝説のバンド「レッド・ツェッペリン」のベーシストのジョン・ポール・ジョーンズさんは、テレビで演奏する岸部一徳さんの姿を見て、「とんでもない凄腕だ」「俺よりいいかもしれない」と大絶賛し、わざわざ本人を探そうとしたというエピソードが残っています)

Sponsored Link

岸部一徳は43歳の時に初主演映画「死の棘」で「日本アカデミー賞最優秀主演男優賞」「キネマ旬報賞主演男優賞」を受賞

その後、岸部一徳さんは、演出家・久世光彦さんの勧めでテレビドラマ「悪魔のようなあいつ」に出演し、俳優としてのキャリアをスタートさせると、

久世光彦さんの紹介で樹木希林さんが設立した事務所に入所し、翌1976年には、樹木希林さんが考案した「岸部一徳」に改名したそうで、

以降、藤田敏八監督、大林宣彦監督、市川崑監督作品などに出演し、着実にキャリアを積むと、

1990年には、初主演映画「死の棘」で、「日本アカデミー賞最優秀主演男優賞」「キネマ旬報賞主演男優賞」を受賞し、この受賞をきっかけに演技派俳優としての地位を不動のものにしたのでした。

「死の棘」
「死の棘」より。岸部一徳さんと松坂慶子さん。

Sponsored Link