1959年、東映フライヤーズに入団すると、同年、新人王に輝き、その後も、首位打者に7回輝くほか、23年間の現役生活でプロ野球最多の通算3085安打、504本塁打という凄まじい記録を樹立した、張本勲(はりもと いさお)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょう。今回は、張本さんの家族について、張本さんのコメントを交えながらご紹介します。
「張本勲が守備に難があったのは幼少期の大やけどが原因?」からの続き
妻は?
張本さんの奥さんは、すでに他界されているようですが、張本さんは、プライベートなことをほとんど明かしておらず、詳しいことは不明です。
ただ、張本さんは、著書「もう一つの人生―被爆者として、人として」で、
プロ野球選手になってから結婚もし、家庭を持ちました。子供も二人います。私が野球に打ち込めたのは、この家族の支えがあったからです。現役の時は、家庭も顧みずに家族には苦労をかけっぱなしでした。特に妻は大変です。シーズン中は、妻子と同じ部屋で寝たことはありません。
24時間野球のことを考えていて、寝る時も枕元にバットを置いていました。バッティングのことが気になると、夜中でも起きて、バットを振ります。打てない自分が夢になって出てくることさえあり、納得がいくまで振り続け、明け方になることもありました。
もしこれを子供が見たら、「いったいお父さんはどうしちゃったんだろう」と異様に思うでしょう。そんな姿を見せたくないからです。本当に、いい夫でも、父親でもなかった。引退したら家族のためにと思っていましたが、それもなかなかできていません。
と、綴っています。
3000本安打達成日に内緒で母親を球場に呼んでくれていた妻に感謝
現役時代は家族に支えてもらっていた、と語っている張本さんですが、中でも、特に奥さんに感謝している出来事があるといいます。
それは、張本さんが、1980年5月28日、ロッテの本拠地・川崎球場で行われた阪急(現・オリックス)戦で、3000本安打を達成した際、奥さんが、内緒で張本さんのお母さんを呼び寄せてくれていたことで、
(張本さんは、そのことを試合の途中で知らされたそうです)
試合後は、お母さんとグランドで一緒に記念写真を撮ったり、お祝いで夜遅くまで一緒に過ごしたりし、お母さんが心から喜んでくれている様子を見て、言いしれぬ幸福感を覚えたそうですが、
実は、張本さんは、それまで、いつ記録が達成できるか分からなかったこともあり、お母さんを呼び寄せたことはなく、家族にも口止めしていたそうで、
後で、奥さんに、「あれほど呼ぶなって言っておいたのに」と言ったそうですが、内心、とても感謝しているのだそうです。
(それから4年後にお母さんは83歳で他界したそうで、改めて、あの時、お母さんを呼んでおいてくれて本当に良かったと、言葉には出さないものの、奥さんには、今も心の中で手を合わせて感謝しているのだそうです)
娘は親不孝?
そんな張本さんと奥さんの間には、娘さんが2人誕生しているそうですが、情報がないことから、芸能関係者ではないようです。
ただ、2014年3月16日、「サンデーモーニング」で、前日15日に行われたレスリングのワールドカップの試合で女子レスリングの吉田沙保里選手が、中国戦、ハンガリー戦ともにテクニカルフォール勝ちを収めて、
試合後、報道陣に対し、
(お父さんの)遺影を見るたびウルッとくるんですけど、遺影を見ると一緒に心の中で戦ってくれてる、一緒にマットに上がってるような気がして、本当に心強かったので、今日はいい試合ができたと思います
と、お父さんへの思いと自身の戦いぶりについてコメントしたことが取り上げられた際には、
(吉田選手は、父でコーチの栄勝さんを、同年3月11日に、くも膜下出血で亡くしたばかりでした)
張本さんは、「あっぱれ」を出しつつ、
勝ったからじゃなくて、親孝行にあっぱれです
大体女の子はね、お父さん煙たいんですよ。ああいう親孝行、この国の美徳なんですよ
私事だけどね、下の娘は親不孝だからね、この場面を見ると、すごく胸がしみるんですよ。いい人ですよ。いい子ですよ
と、突然、家庭内の事情をカミングアウト。
そこで、司会の関口宏さんが、すかさず、
娘さん、上手くいかないんですか?
と、聞くと、
張本さんは、
上手くいかないよりも、今の子は親不孝が多いじゃないですか。自分1人で大きくなって、みたいな。とんでもないよ本当に!
と、吠えたそうで、少なくとも、張本さんは娘さんに不満を持っているようです。
さて、いかがでしたでしょうか。
張本勲さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?兄弟は?
- 国籍は大韓民国籍
- 東映フライヤーズに入団する際、帰化を考えるも・・・
- その後もたびたび帰化することを考えていた
- 同胞の思いを知って帰化しないと決めていた
- 同じ在日韓国人の金田正一は帰化していた
- 民族的侮蔑を含むヤジに怒り足蹴りにする事件を起こしていた
- 金田正一には一時期わだかまりがあった
- 最終的には金田正一と打ち解けていた
- 両親は在日韓国人
- 幼少期は貧乏でいつもお腹を空かせていた
- 父親が太刀魚の骨が喉にひっかかり他界
- 4歳の時トラックに跳ね飛ばされて焚き火の中に落ち大やけどを負っていた
- 4歳の時トラックに跳ね飛ばされて焚き火の中に落ち大やけどを負っていた
- 右手は炭のように黒く焦げ小指と薬指が三分の一ほどになっていた
- 小学4年生の時に右手の手術を受けるも治らなかった
- 在日朝鮮人の張本一家は戦時中は身を潜めるようにして生きていた
- 5歳の時に爆心地から2.5キロで原爆投下に遭うも助かっていた
- ぶどう畑まで走って逃げて助かっていた
- 母親とぶどう畑で再会を果たす
- ぶどう畑では何十人もの人がやけどやケガで苦しみうめいていた
- 兄とも無事再会を果たすも・・・
- 一番上の姉は原爆の熱線をまともに受け全身にやけどを負った姿で運び込まれて来た
- 母親は原爆で全身大やけどを負った姉の体をドブ川のぬるい水で濡らした布で拭くしかなかった
- 一番上の姉が他界
- お姉さんの写真や形見は母親が全て焼き払ってしまった
- 差別を恐れ被爆者であることを伏せていた
- 終戦後は水を求めて猿猴川沿いに避難していた
- 韓国に帰国しようとするも定員オーバーで乗れなかった船が転覆していた
- 終戦直後は粗末な小屋(朝鮮部落)で極貧生活を送っていた
- 母親が小さなホルモン焼き屋を始める
- 密造酒の一杯飲み屋だったことで生き延びていた
- 母親の作るキムチが評判だった
- 浪花節が上手な客の影響で浪花節が好きになっていた
- 母親はバス代を惜しみ往復1時間かけて歩いて仕入れに行っていた
- 母親は冬の寒い日でも裸足に下駄履きで手袋もしていなかった
- 母親の店が繁盛し極貧状態から脱出
- 少年時代は家族の愛情を一身に受けてすくすく育っていた
- 小学生の時は水泳が得意だった
- 小学5年生の時に野球を始める
- 初打席で二塁打を放っていた
- 「4番ピッチャー」に憧れるも右手が不自由だったため左投げに転向していた
- 右手が不自由だったため守備は苦手だった
- 中学では水泳部がなく仕方なく野球部に入部していた
- 中学生の時にはしばしば観音球場(広島県総合グランド野球場)にプロ野球の試合を観に行っていた
- 巨人の選手たちがご馳走を食べ分厚い財布からお金を取り出しているのを見て野球選手になる決意をしていた
- プロ野球選手になって母親を楽にさせたかった
- 強く遠くへ打球を飛ばすことだけを考えて一人でバットを振っていた
- 中学3年生の時にはエースで4番
- 中学生の時にはしばしば長打で校舎の窓ガラスを割っていた
- 強豪校・広島商業高校への進学を希望していた
- 山本一義に誘われ広島商業高校の練習に参加するも・・・
- 素行不良を理由に広島商業高校を不合格となる
- 小学5、6年生の時には目の前で韓国人が日本人にイジメられていたら日本人を叩きのめしていた
- 小学5、6年生の時にはケンカは最後まで徹底的にやらなければ気が済まなかった
- 中学時代は大人のヤクザ相手にケンカをしていた
- 中学2年生の時にはサッカー部のキャプテンをバットで殴り大ケガさせるも・・・
- 中学生の時には姉を騙した大人のヤクザを半殺しにしたことがあった
- 中学生の時にはバットを持って襲いかかってきた大人のチンピラをぶちのめしていた
- 第二志望の広陵高校では言わでもの事を面接官に言って不合格となり面接官の足を蹴っていた
- 兄の尽力で松本商業高校(現・瀬戸内高校)に入るも・・・
- 松本商業高校に進学しレギュラーとなるも弱小な野球部に不満を募らせていた
- 浪華商業高等学校に入りたくて居ても立っても居られなくなっていた
- ついに兄が松本商業高校の横田監督に相談してくれる
- 兄は張本勲に野球の才能があるのか疑っていた
- 松本商業高校の横田監督には太鼓判を押されるも・・・
- 浪商の監督兼野球部部長の中島春雄はすんなり受け入れてくれなかった
- 兄が浪商の監督兼野球部部長・中島春雄に懸命に頼み込んでくれプレーを見てもらうことに
- 中島春雄から浪商の編入試験を受けるよう勧められる
- 兄が学費も生活費も工面してくれていた
- 浪華商業高等学校に進学するも1ヶ月1万円の生活は大変だった
- 浪商野球部の中島春雄監督が暴力事件の責任を取って辞任
- 浪商では暴力事件により甲子園は3年生の春と夏しかチャンスがなかった
- 浪商では高校2年生の時にはエースで4番
- 高校2年生の時には巨人の水原茂監督から直々にスカウトされていた
- 水原監督から高校卒業まで待っていると言われ自信がわいていた
- 高校2年生の夏に肩を痛めピッチャーを断念せざるを得なくなっていた
- 前監督の中島春雄にバッター専念を勧められ指導を受けていた
- 近畿大会大阪府予選には4番・センターで出場し13試合で打率5割11本塁打を打つ活躍で注目を浴びる
- 高校3年生になる直前に休部命令を言い渡されていた
- 濡れ衣を着せられていた
- 高校3年も甲子園出場は許されなかった
- 新部長に甲子園に出場できないように仕組まれていた
- 朝鮮人嫌いの新部長にハメられていた
- 甲子園への道が絶たれ自殺を考えるほどショックを受けていた
- 高校3年生の時に生まれて初めて祖国・韓国の地を踏む
- 初めての韓国では出迎えの光景に驚く
- 韓国メディアに大きく報道される
- 初めて祖父母に会っていた
- プロ野球10球団の誘いの中から東映フライヤーズに入団
- 後に中日ドラゴンズに入団しなかったことを後悔していた
- 契約金200万円分の千円の札束を夜行列車で抱いて帰っていた
- 契約金200万円のうち100万円で一戸建ての家を建てる
- 松木謙治郎打撃コーチによる右手の強化特訓を受けていた
- バッティングは右手が不自由だっため高校までほとんど左手一本で打っていた
- 右足のステップを小さくするため日常生活から右足を意識していた
- 打撃コーチの松木謙治郎は張本勲を中距離打者に育てようとしていた
- 初試合は6番レフトで先発出場もバンザイして途中交代させられていた
- 新人王を獲得
- 新人王を獲得するも後悔していたことがあった
- 3年連続で3割を打つも・・・
- 入団5年目(23歳)の時に王貞治の打撃練習を見て衝撃を受けていた
- オールスター後は飲みに行かず王貞治を倣ってひたすらバットを振っていた
- 巨人に移籍し3年間は活躍するも4年目に成績が降下すると戦力外に
- 前人未到の通算3000安打500本塁打を達成するも現役引退
- 二度と野球選手になりたくないと語った理由とは?
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- 首位打者7回ほかタイトル多数
- 通算3085安打、通算500本塁打300盗塁ほかNPB記録多数
- 「サンデーモーニング」のコメンテーターとして人気を博すも・・・
- 自ら「サンデーモーニング」降板を発表
- 独特のコメントは以前から物議を醸すことが多かった
- ボクシングの入江聖奈選手に対する発言に批判が殺到し大炎上していた
- スポンサーからのトップダウンで降板が決定していた
- 司会の関口宏もかばいきれなかった?
- 張本本人はらしからぬ歯切れの悪い返答
- 打撃は「安打製造機」と称されるほど凄まじかった
- 守備が苦手だったのは幼い頃に負った大やけどの後遺症のせいだった
- 当初は守備も悪くなかった?
- 打撃以外は手を抜いていた?
- 妻は?
- 3000本安打達成日に内緒で母親を球場に呼んでくれていた妻に感謝
- 娘は親不孝?
について、まとめてみました。
率直過ぎる言動で批判され、ついには長年務めた「サンデーモーニング」のコメンテーターも降板となった張本さんですが、幼い頃から、在日韓国人として差別を受け、原爆被爆者としても差別を受け、そのうえ、右手に大やけどの後遺症が残るという、凄まじい逆境の中で、球史に残る大記録を残し、現在の地位を築いた努力に、「あっぱれ」です。