1970年、「オフコース」として、17枚目のシングル「さよなら」で、一躍トップスターの座に駆け上ると、その後も、数々の名曲を世に送り出してきた、小田和正(おだ かずまさ)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょう。今回は、そんな小田さんの奥さんとの馴れ初めや、最近、話題になっていることをご紹介します。
「小田和正がライブで客席まで降りるのは交通事故がきっかけだった!」からの続き
妻・恵子との馴れ初めは?
小田さんは、1982年9月3日、35歳の時、音楽プロダクションでアルバイトをしていた、6歳年下の新井恵子さんと結婚しています。
実は、新井さんとは中学の同級生だそうで、その時は交際してはいなかったのですが、「オフコース」のファンクラブ設立時、恵子さんの友人が「オフコース」のファンクラブで会報作りをしていたことから、恵子さんもファンクラブの活動を手伝うようになり、一気に二人の距離が縮まったそうで、その後、約10年の交際を経て結婚に至ったのだそうです。
ちなみに、結婚後は、恵子さんが小田さんの活動をサポートするほか、二人でゴルフに行くなど、夫婦仲はとても良いとのことです。
妻・恵子さん。
子供がいない理由とは?
そんな小田さんと恵子さんの間には、子供はいないのですが、
小田さんは、その理由について、
街で大きな声を出してはしゃぐ子供が嫌いで、もし自分に子供が出来たらそういう子供にしないように育てる自身がないから、子供がいないんです。
と、語っています。
74歳にして変わらぬ高音(ハイトーンボイス)
ところで、小田さんといえば、ハイトーンボイスが持ち味で、2022年6月には、3年ぶりとなる全国ツアー「Kazumasa Oda Tour 2022 こんど、君と」で、74歳ながら、キーを下げることなく、若い頃と同じように高音のメロディを何曲も歌い続けているのですが、
実は、72歳から73歳になる時、コロナ禍によるライブ活動自粛で、歌う機会がなくなり、声が出にくくなったことがあったそうです。
そのため、このツアーでは、ハイトーンボイスが失われていないか心配されていたそうですが、会場を訪れたファンからは、「相変わらずの高音」「以前と同じような伸びやかな美声だった」「透き通った歌声は健在」と、SNS上で変わらぬ歌声を絶賛する声が上がっています。
ちなみに、声帯は粘膜と筋肉でできているため、年を重ねるうちに声帯の粘膜にハリがなくなって筋力も落ち、声がかすれやすくなったり、高い声が出にくくなってしまうそうですが、意識的にトレーニングすることで、筋肉を回復させることができるとのことで、小田さんも、相当なトレーニングを積んだのではないかと言われています。
コロナ感染後は高音が出なくなった?
ところが、この「Kazumasa Oda Tour 2022 こんど、君と」ツアー中の7月、新型コロナウィルスに感染し、8月3日、4日の東京公演(代々木第1体育館)および8月13日、14日の沖縄アリーナ公演が中止となると、
復帰後、ツアーの後半(10月~11月頃)では、歌い出しから歌詞が飛んでしまうほか、高音の部分が歌えないことがあったり、時折、途中で歌詞が詰まってコーラス隊に助けられたりしたというのです。
(歌詞を途中で間違うことは過去のコンサーでもあったそうですが)
そのため、コロナによる後遺症が心配されており、大事に至らなければ良いのですが・・・
(「ガン」という噂もありますが、デマと思われます)
さて、いかがでしたでしょうか。
小田和正さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 幼少期は近所のパチンコ屋から流れてくる歌謡曲を聴きながら育った
- 母親は小学校の唱歌や子守唄を真剣に歌っていた
- 小学生の時は賛美歌・洋楽・映画音楽などジャンルを問わず何でも聴いていた
- 小学生の時から自分の伴奏で歌いたいと思うようになっていた
- 中学生の時、映画「ティファニーで朝食を」の主題歌「ムーン・リバー」に衝撃を受ける
- 「オフコース」のメンバー・鈴木康博との出会い
- 高校3年生の時、学園祭で初ステージを踏むと大好評を博していた
- 高校の途中までは医師を目指していた
- 病院の見学で建物が古くホルマリン浸けの臭いに嫌気が差し医師を目指すのをやめていた
- 建築家を目指し東北大学工学部建築学科に進学
- 大学進学後も鈴木康博と地主道夫の3人で音楽を続けていた
- ヤマハコンテストで優勝して音楽をやめるつもりだった
- 「ジ・オフ・コース」として「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に出場も2位どまりだった
- 「群衆の中で」でデビューも地主道夫が脱退
- デビュー当初はひどいヤジを飛ばされていた
- 「かぐや姫」の前座では最後の曲でやっと終わると拍手されていた
- オフコース(音楽活動)と大学院生の二刀流だった
- 建築の道に進むか音楽の道に進むか迷っていた
- 7枚目のシングル「眠れぬ夜」が初ヒットするも・・・
- 建築をやめ音楽の道1本に絞った理由とは?
- サポートメンバーだった松尾一彦、大間ジロー、清水仁が正式に「オフコース」に加入
- 「オフコース」にロックを取り入れシャウトしていた
- 「オフコース」を5人編成とすると気持ちに余裕が生まれるようになっていた
- 17枚目のシングル「さよなら」が大ヒット
- 「さよなら」は”ヒットさせなければならない”という思いで作った曲だった
- 「さよなら」は当初は別れの歌ではなくハッピーエンドな曲だった
- 「さよなら」の大ヒットでヒットを実感していた
- 18枚目のシングル「生まれ来る子供たちのために」が一番歌いたい曲だった
- 再び「Yes-No」「I LOVE YOU」「Yes-Yes-Yes」「君が、嘘を、ついた」など愛の歌でヒットを飛ばしトップスターの地位を確立
- 自分と同じ感覚を持っている人とつながりたい
- 武道館での連続10日間ライブが成功するも・・・
- 鈴木康博の「オフコース」脱退理由とは?
- 「オフコース」の解散理由は?
- 「オフコース」解散のきっかけは鈴木康博の脱退だった?
- 「オフコース」の再結成は?
- 6枚目のソロシングル「ラブ・ストーリーは突然に」が売上200万枚超の大ヒット
- 当初「東京ラブストーリー」の主題歌は別の曲だった
- 「ラブ・ストーリーは突然に」はドラマ「東京ラブストーリー」のために描き下ろした曲だった
- ヒットメーカーとしてドラマの主題歌やCMソングの依頼が殺到していた
- ソロになってからは他のアーティストとも積極的に交流
- 映画「いつか どこかで」を制作するも・・・
- 映画「いつか どこかで」の評価は散々だった
- 映画監督第二作目「緑の街」は第一作目「いつかどこかで」の制作現場の出来事を取り込んでいた
- 素の姿を描いたドキュメンタリー「キャディ 青木功/小田和正~怒られて、励まされて、54ホール」が大反響だった
- 叱られるところなど恥ずかしい姿をさらけ出すことに抵抗を感じていなかった
- 素(等身大)の姿を見せたいと思っていた
- 高速道路でスリップしガードロープに激突する大事故を起こしていた
- 奇跡的な回復を遂げていた
- 数多くのファンからの「生きていてくれてよかった」という手紙に感動していた
- お客さんに喜んでもらおうとコンサートで客席まで降りるように
- 照れくさくてできなかった手を振って歌うこともできるように
- 事前にコンサートの開催地を巡って地元の人たちと触れ合った映像をコンサート会場で流すように
- 妻・恵子との馴れ初めは?
- 子供がいない理由とは?
- 74歳にして変わらぬ高音(ハイトーンボイス)
- コロナ感染後は高音が出なくなった?
に、ついてまとめてみました。
どの曲をふりかえってみても、やっぱり音楽が好きだったんだなと思うな。音楽をやることが、とっても楽しかったんだと思う。それにつきるもんな。
と、語っていた小田さん。
デビューしてから50余年、70代半ばという高齢にもかかわらず、ハイトーンボイスを維持できたのは、そんな音楽への情熱の賜物なのかもしれません。
ともあれ、小田さんには、しっかり養生してもらって、まだまだ、その美しく伸びやかな歌声を聴かせてほしいものです。
「小田和正は幼少期パチンコ屋の歌謡曲を聴きながら育っていた!」