1958年、読売ジャイアンツに入団すると、この年、いきなり、本塁打王、打点王を獲得する活躍で、新人王にも輝くと、その後も、派手なアクションや勝負強さで絶大な人気を獲得し、「ミスタープロ野球」と称された、長嶋茂雄(ながしま しげお)さん。
今回は、そんな長嶋茂雄さんの高校野球時代からプロ野球現役時代までの活躍や経歴を時系列でご紹介します。
「長嶋茂雄の生い立ちは?幼少期から野球に夢中!俊足で陸上選手としても活躍していた!」からの続き
長嶋茂雄の10代の頃
高校2年生~高校3年生の時はバッティングはセンター方向にしか打つことができず、守備もエラーの連発でショートからサードに変えられていた
長嶋茂雄さんは、佐倉第一高等学校(佐倉一高)に進学すると、野球部に入部するのですが、高校2年生の時には、バッティング技術が乏しく、センター方向にしか打つことしかできず、
念願の佐倉一高に進学し、野球部に入部すると、中学の時とは比べ物にならないほど厳しい練習をしていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、我流だったことから、高校2年生の時には、一流選手のバッティング技術を盗もうと …
高校2年生の時には、プロ野球の一流選手のバッティング技術を盗もうと、後楽園球場に通い、目をサラのようにして観察していたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、帰宅後は、庭の柿の木の下で、そのバッティングを再現しようと …
高校時代、後楽園球場に足繁く通っては、プロ野球の一流選手たちのバッティングを目をサラのようにして観察し、帰宅後、庭の柿の木の下で、自分で実況中継をしながら、素振りをしていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、 …
守備のショートもエラーの連発で、1953年6月、高校3年生の時、市川高校で開催された練習試合で、第1試合で4つのエラー、第2試合でも5回目のエラーをしてしまい、ついに、激怒した加藤監督にサードに変えられてしまったそうです。
高校時代の長嶋茂雄さん。
高校2年生の秋頃には、打球が90メートル以上飛ぶようになったものの、まだバッティング技術に乏しく、センター方向にしか打てなかったという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、実は、守備のショートでも、エラー(トンネル)の連 …
高校3年生の夏に南関東大会に千葉代表校として出場しセンターバックスクリーンに叩き込む超特大ホームランを放っていた
そんな長嶋茂雄さんですが、その後、甲子園出場を目指し、猛練習に励むと、その甲斐あってか、高校3年生の夏、長嶋茂雄さんの佐倉一高は、大会地区予選を勝ち進み、南関東大会に千葉代表校として出場を果たします。
高校2年生の時には、バッティングはセンター方向にしか打つことができず、守備のショートでもエラーの連発だったという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、その後、甲子園出場を目指し、猛練習すると、その甲斐あってか、高校3 …
ただ、1953年8月1日、高校3年生の時、大宮球場で開催された南関東大会(試合)の第1回戦・熊谷高校戦では、佐倉一高は、次々とアクシデントに見舞われ、レギュラー3名を欠く異常事態の中、試合は、前半で勝負がついてしまったのでした。
(試合は1対4で敗退)
佐倉一高が南関東大会に千葉代表校として出場が決まると、日を追うごとに、選手の保護者たちも盛り上がり、いっそう興奮が高まってきたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、やがて、長嶋さん以外の選手の家族が全員、球場に …
それでも、長嶋茂雄さんは、6回には、熊谷高校のエース・福島さんが放った、カウント1-0からの2球目、真ん中高めの伸びのあるストレートを、センターバックスクリーンに超特大のホームランを叩き込んだそうです。
佐倉一高が開校以来初めて千葉県代表になり、周囲が大盛りあがりする中、チームメイトの中で、自分の家族だけが応援に来れないことを知り、がっかりしたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、試合当日には、思い直し、超特大 …
佐倉一高が開校以来初めて、南関東大会で千葉県代表となり、周囲が盛りあがっている中、チームの中で自分の家族だけが応援に来れないことを知り、がっかりするも、試合当日には、思い直し、センターバックスクリーンに超特大ホームランを …
高校卒業後は父親の意向で立教大学に進学していた
そんな長嶋茂雄さんは、野球関係者から注目を集めるようになり、読売ジャイアンツほかプロ野球のスカウトが殺到したそうで、
長嶋茂雄さんは、もともと、読売ジャイアンツに憧れていたことから、巨人軍に入ることを強く希望したそうですが、大学進学を希望するお父さんの意向により、立教大学に進学することになったそうです。
南関東大会で大宮球場のセンターバックスクリーンに超特大のホームランを放った、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、その後、野球関係者から注目を集めるようになり、巨人軍(読売ジャイアンツ)をはじめとした、スカウトが殺到する中 …
憧れの巨人軍(読売ジャイアンツ)からスカウトされて有頂天になり、巨人軍に入ることを希望したという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、お父さんには、大学に進学するよう説得され、立教大学に進学することになったといいます …
お父さんの意向に従って立教大学に進学することになり、立教大学から「11月下旬の冬季休暇第一日より、伊東にキャンプをはる。君の参加を待つ」という、野球部推薦入学のセレクションの案内状が届くと、「キャンプ」という文字に胸が踊 …
立教大学の推薦入学のセレクションでは、名門・芦屋高校の本屋敷錦吾さんの軽々と打球をさばく身のこなしに舌を巻き、見とれていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、打撃練習では、砂押監督を釘付けにし、紅白試合では、 …
長嶋茂雄の20代の頃
21歳の時に東京六大学野球の新記録8本塁打を達成していた
こうして、立教大学に進学した長嶋茂雄さんは、1957年、大学4年生の時には、春のリーグ戦で、通算7本塁打を記録し、あと1本ホームランを打てば、東京六大学リーグ史上初の記録になるという状況だったのですが、マスコミの存在に苦しみ、思うようなバッティングができずにいたそうです。
バッティングの練習では、「鬼の砂押」と呼ばれる砂押監督を釘付けにするほか、後に「史上最強のアンダースロー」と称される杉浦忠さんから3安打放つなど、早くも頭角を現した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、無事、推薦で立教大 …
入学式当日から、さっそく野球部の練習が始まると、練習が終わった後も、一人だけ夜間練習を命じられたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、それから1週間後には、野球部全員が「鬼の砂押(監督)」に集められ、暗闇の中で …
入学式当日から練習が始まると、他の選手に先駆けて、一人だけ夜間練習が課せられていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、今度は、「鬼の砂押」こと砂押監督から、暗闇の中、素手でノックを受けさせられたといいます。 …
立教大学では、砂押監督からは、暗闇の中ノックを受け、ボールが見えずとも、グローブに頼らず素手で捕るよう命じられるなど、スパルタ式の猛特訓を受けていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、その後も、重いバットでスイン …
また、秋のリーグ戦でも、あと1本ホームランを打てば、東京六大学野球の新記録更新、チームとしては、あと1勝すれば立教大学が優勝という状況の中、緊張のあまり、バッティングが振るわなかったそうですが、
立教大学では、砂押監督から、暗闇の中、素手でノックを受けさせられるほか、重いバットで素振りをさせられるなど、猛特訓を受けていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、やがては、自分が砂押監督に見込まれていると感じ …
神宮球場で行われる大会(春の六大学野球リーグ戦や新人リーグ戦)出場を夢見て、日々、砂押監督の猛特訓を受けていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、新人リーグ戦を前に、お父さんが危篤だという報せを受けたといいま …
新人リーグ戦が始まる1954年6月6日を前に、練習にも一層、熱が入り始めた頃、お父さんが危篤との報せを受け、大急ぎで自宅に帰った、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、臨終のお父さんに日本一のプロ野球選手になることを誓った …
臨終のお父さんに日本一のプロ野球選手になることを誓ったという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、その後、苦しくなった家計を支えるため、立教大学を辞めてプロ入りすることを考えるも、家族の反対に遭い、大学に残ると、これまで …
お父さんが他界後、苦しい家計を助けるため、大学を辞めてプロ入りすることを考えるも、家族の反対に遭い、大学に残ると、大学を続けさせてくれるお母さんや他の兄姉たちのためにも、なお一層、野球の練習に励んだという、長嶋茂雄(なが …
お父さんが他界した後は、六大学一番の選手になって日本一のプロ野球選手になるという、お父さんとの約束を守るため、それまで以上に砂押監督の猛特訓に励んでいた、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、そんな中、砂押監督から特別 …
立教大学では、砂押監督から特別に目をかけられ、猛特訓を受けていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、1995年、大学2年生の夏頃には、砂押監督のスパルタ方式の特訓に反発した先輩たちによる「砂押監督排斥運動」が …
立教大学4年生の時には、東京六大学野球リーグで、当時の東京六大学記録の7本塁打を更新する8本塁打を記録した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、新記録達成に立ちはだかる最大の敵はマスコミだったといいます。 「長嶋茂雄 …
1957年11月3日、5回裏、第2打席が回ってきた際、ふと、自身のバットの隣に差し込んであったチームメイトの浅井さんの太いタイカッブ型バットを借りてバッターボックスに入ると、これが功を奏し、ついに、5球目、インコース低めに食い込んだカーブをレフトスタンドにホームランし、東京六大学史上新記録となる8本塁打を達成したのでした。
(この日は、祝日(文化の日)だったことから、神宮球場はたくさんの人で埋まっていたそうです)
立教大学時代の長嶋茂雄さん。
1957年(大学4年生)の時、春のリーグ戦で通算7本塁打を放ち、あと1本で、当時の東京六大学リーグ史上、新記録になるという状況の中、マスコミの存在や周囲の目が気になって、なかなか思うようなバッティングができずにいたという …
1957年11月3日、東京六大学野球の秋のリーグ戦で、勝てばチームは優勝、個人的には、あと1本ホームランを打てば、東京六大学の記録を更新するという状況で、緊張のあまりバッティングが振るわなかったという、長嶋茂雄(ながしま …
立教大学卒業後は「南海ホークス」に入団することが決まっていた
そんな長嶋茂雄さんは、立教大学卒業後も、数多くのプロ野球球団からスカウトされ、1958年、22歳の時には、読売ジャイアンツに入団するのですが、
実は、「南海ホークス」(現・ソフトバンク)に入団することが決定していたところ、土壇場で、読売ジャイアンツに入団することになったといいます。
読売ジャイアンツに入団する長嶋茂雄さん。
長嶋茂雄(ながしま しげお)さんといえば、誰もが巨人(読売ジャイアンツ)で活躍したスーパースターと知るところですが、実は、当初は、巨人ではなく、南海ホークス(現・ソフトバンク)に入団することになっていたといわれています。 …
22歳(読売ジャイアンツに入団1年目)は国鉄スワローズのエース・金田正一を打ち砕くことしか考えていなかった
そんな長嶋茂雄さんは、読売ジャイアンツに入団した1年目の1958年(22歳)、ルーキーでありながら、いきなり、阪急ブレーブスとのオープン戦で7本の本塁打を放つなど、新人としては異例の成績を残し、
最終的には、このシーズン、153安打、3割5厘、29本塁打、34二塁打、92打点、89得点、37盗塁で、新人王・本塁打王・打点王・最多安打・最多二塁打・最高長打率・最多得点と大活躍しています。
(ただ、4月5日、国鉄スワローズ戦で、国鉄スワローズのエース・金田正一さんに4打席4三振を喫しており、以降、金田正一さんを打ち砕くことしか考えられなくなっていたといいます。それでも、金田正一さんの球を、どうにか打ちこなせるようになったのは3年目になってからだったそうです)
立教大学卒業後、巨人(読売ジャイアンツ)に入団した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、入団した年の1958年、国鉄スワローズ戦で、エースの金田正一さんに4打席4三振を喫しているのですが、以降、金田さんの球を打ち砕くこと …
1958年、巨人に入団した年には、開幕戦の国鉄スワローズ戦で、エース・金田正一さんに4打席連続三振を喫するも、153安打3割5厘29本塁打34二塁打92打点89得点37盗塁で、新人王・本塁打王・打点王・最多安打・最多二塁 …
23歳(読売ジャイアンツに入団2年目)の時には天覧試合で阪神タイガースのエース・村山実から決勝のサヨナラ本塁打を放っていた
また、長嶋茂雄さんは、入団2年目の1959年6月25日(23歳)には、後楽園球場でプロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)で、阪神タイガースのエース・村山実さんから決勝のサヨナラ本塁打を放つ活躍をしています。
プロ入り1年目から大活躍し、新人王にも輝いた、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、1959年6月25日、後楽園球場で行われたプロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)でも、サヨナラ本塁打を打っているの …
1959年6月25日、後楽園球場で行われたプロ野球試合初の天覧試合では、天皇・皇后両陛下のお目当てが自身であることを知り、緊張のあまり、普段は張り上げている甲高い声を出すことも忘れていたという、長嶋茂雄(ながしま しげお …
天覧試合では、天皇・皇后両陛下の期待を一身に背負い、4番打者の重圧を感じながらも、5回裏、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんが同点ホームランを放つと、続く5番の坂崎さんもホームランを放ち、2対1と一気に逆転した巨人ですが、 …
1959年6月25日、天覧試合でサヨナラ本塁打を放つ長嶋茂雄さん。
天覧試合では、対戦相手の阪神に2点差をつけられ、7回裏の打席では、「なんとかしなくては・・・」と焦るあまりに、見逃しの三振に倒れた、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、続く5番・坂崎一彦さんがライト前にヒットすると、 …
天覧試合で阪神タイガースの村山実さんから逆転サヨナラ本塁打を放ったことが、あまりにも有名な、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、実は、村山さんは前夜の巨人戦にもリリーフとして4イニング投げ、巨人打線をシャットアウトに …
追いつ追われつのシーソーゲームとなった天覧試合で、9回裏、打席が回ってきた、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、阪神のピッチャー・村山実さんが投じた5球目のストレートを強振すると、ライナーでレフトポール際に入るサヨナラ本 …
長嶋茂雄の30代の頃
37歳の時に川上哲治監督から事実上の引退勧告を受けていた
以降、長嶋茂雄さんは、チャンスに無類の強さを発揮し、王貞治さんととともに「ON砲」と称される活躍で、巨人のV9に大きく貢献したのですが、1973年、37歳の時には、川上哲治監督から事実上の引退勧告を受けたそうです。
1959年の天覧試合で阪神の村山実さんから決勝のサヨナラホームランを放った、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんは、その後も、チャンスに無類の強さを発揮し、巨人の黄金時代に大きく貢献するのですが、そんな長嶋さんも寄る年波には …
実は、長嶋茂雄さんは、1972年、36歳頃から、体力の衰えを感じるようになると、1973年には、王貞治さんにチーム最多の4番の座を譲るほか、8月14日のヤクルト戦では、ヤクルトのピッチャー・三原脩さんが、4番の王貞治さんを5打席連続で敬遠し、5番の長嶋茂雄さんとすべて勝負してくるという屈辱も受けていたといいます。
1973年には、川上哲治監督から事実上の引退勧告を受けるも、頼み込み、もう1年現役を続けることになった、長嶋茂雄(ながしま しげお)さんですが、やはり、思うような活躍は出来ず、1974年10月14日、現役を引退します。 …
38歳の時に現役を引退
それでも、長嶋茂雄さんは、川上哲治監督に頼み込み、もう1年現役を続けることになったそうですが、やはり、さっぱりヒットが出ず、思うような活躍はできなかったそうで、
1974年、激しいペナントレースの真っ最中だった6月13日(38歳)、ついに、川上哲治監督からスタメンを休むように命じられると、その後は、下位打線を含む色んな打順を打つこととなり、同年、10月14日、現役を引退したのでした。
首位打者6回、本塁打王2回、打点王5、ベストナイン17回ほか、凄まじい活躍で、巨人(読売ジャイアンツ)の9年連続日本一に大きく貢献した、長嶋茂雄(ながしま しげお)さん。今回は、そんな長嶋さんの凄すぎる成績をご紹介します …
「【画像】長嶋茂雄の若い頃(監督時代)から現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
1994年には、プロ野球史上初となる、最終試合(10月8日)が優勝決定戦となる中日戦で、見事、勝利して、リーグ優勝を果たすほか、1996年には、11.5ゲーム差を逆転してリーグ優勝(メークドラマ)するなど、監督としても素 …