吉本新喜劇の舞台で「非っ常にキビシ~ッ!」「~してチョウダィ!」のギャグでブレイクし、その後も、「タケモトピアノ」のCMでダンサーと共にコミカルなパフォーマンスを披露し、大きな話題になった、財津一郎(ざいつ いちろう)さん。
今回は、そんな財津一郎さんの若い頃の活躍や経歴をデビューから時系列でまとめてみました。
「財津一郎の生い立ちは?幼少期は裕福も小中学時代が悲惨!高校時代は合唱と演劇に夢中になっていた!」からの続き
財津一郎が20代の時はジャズシンガーとして米軍キャンプを巡業し人気を博すも役者を志し「榎本健一映画研究所」に入所していた
21歳の時にジャズシンガーとして米軍キャンプを巡業し人気を博す
財津一郎はさんは、1955年、21歳の時に、米軍キャンプを回るジャズシンガーという仕事を見つけると、ジャズシンガーとして、北海道から沖縄まで全国各地の米軍キャンプを巡業するようになり、米兵たちからは「ジミー・ザイツ」のニックネームで呼ばれるなど、人気を博したそうです。
帝国劇場が研究生を募集している広告を見つけテストを受けると、見事合格して「赤い絨毯」で初舞台を踏むも、それから2年も経たないうちに劇団が解散してしまい、周囲が東宝演劇部や撮影所で働くことになる中、若い頃の苦労は買ってでも …
23歳の時にジャズシンガーを辞めて役者を志し「榎本健一映画研究所」に入所していた
しかし、1957年、23歳の時には、同僚から、米兵たちはいつかアメリカに帰ってしまうと助言を受けると、この言葉に納得し、確かに歌だけでは生きていけないと思い、ジャズシンガーの仕事をきっぱりと辞めて演劇を学ぶ決意をしたそうで、
同年には、榎本健一さんの「榎本健一映画研究所」に入所し、演技を基礎から学んだそうです。
ジャズシンガーとして、北海道から沖縄まで全国各地の米軍キャンプを巡業するようになると、米兵たちからは「ジミー・ザイツ」のニックネームで呼ばれるなど、人気を博したという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、同僚から、米 …
1957年、「日本の喜劇王」と称された榎本健一さんの「榎本健一演劇研究所」に入所し、演技の基礎を徹底的に学んだという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、卒業してから約10年後、榎本さん演出の舞台に出演すると、強烈な形で …
25歳で「榎本健一映画研究所」を卒業するも仕事がなく職業安定所に通う日々だった
こうして、財津一郎さんは、「榎本健一映画演劇研究所」で、2年間、演技の勉強をすると、1959年(25歳)に卒業後は、さらに東京で修業を積む決意をしたそうですが、なかなか仕事がなく、職業安定所に通う日々が続いたといいます。
(ほとんどの研究生が、京都の撮影所に行って映画の仕事をもらっていたそうです)
1957年には、「榎本健一映画演劇研究所」に入所し、2年間、演劇を勉強したという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、ほとんどの研究生が、卒業後は京都の撮影所に行って映画の仕事をもらっている中、さらに東京で修業を積む決意 …
20代半ば頃には「石井均一座」「劇団ムーラン」を転々としていた
そんな日々の中、財津一郎さんは、20代半ば頃、このままではいけないと、再び、演技の勉強をするべく、「石井均一座」の門を叩いたそうですが、
「石井均一座」は入座間もなく解散し、次に「劇団ムーラン」に入団するも、こちらも間もなく解散してしまったのだそうです。
1959年には「榎本健一映画演劇研究所」を卒業するも、さらに東京で修行をしようと決めたという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、なかなか仕事がなく、毎日、職業安定所に通っていると、ひょんなことから、憧れの俳優だった …
20代半ばの頃に「宝塚新芸座」に入団するももっと自分を鍛えたいと思うようになっていた
そんな状況に途方に暮れていた財津一郎さんですが、劇作家で俳優の小崎政房さんから、「宝塚新芸座」を紹介してもらい、関西で役者の勉強をすることを勧められると、このアドバイスを受け入れ、関西に移り住み、「宝塚新芸座」に入団。
その後、財津一郎さんは、劇作家の菊田一夫さんの作品を扱った舞台を中心に出演するほか、「宝塚歌劇団」のスターを呼んだ公演に出演すると、楽しく、とても勉強になったそうですが、
やがて、「宝塚新芸座」では満足できなくなり、もっと自分を鍛えたいという思いに駆られるようになり、再び、小崎政房さんに相談したそうです。
すると、小崎政房さんは、今度は「吉本興業」を紹介してくれたのだそうです。
「石井均一座」に入るも、2年ほどで解散したことから、今度は、「劇団ムーラン」に入るも、またもや早々に解散となってしまい、再び、途方に暮れていたという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、劇作家で俳優の小崎政房さんのア …
28歳の時に「吉本興業」に入団するも慣れない大阪で苦労していた
こうして、財津一郎さんは、1962年、28歳の時、「吉本興業」に入団したそうですが、当初は、東京から流れ着いて来たのだろうという大阪の観客の厳しい視線を感じ、笑いを取るどころではく、慣れない大阪で大変な苦労をしたといいます。
「石井均一座」「劇団ムーラン」と立て続けに、所属していた劇団が解散し、途方に暮れていたところ、劇作家で俳優の小崎政房さんに紹介され、「宝塚新芸座」に入団するも、夜の公演がないことを物足りなく感じ、再び小崎さんに相談し、「 …
財津一郎が30代の時は「非っ常にキビシ~ッ!」「~してチョウダィ!」のギャグで大ブレイク
31歳の時に吉本新喜劇で発した「やめてチョウダイ」がたちまち評判になる
それでも、財津一郎さんは、大阪人と打ち解けるため、勉強を重ねたそうで、1965年、31歳の時には、吉本新喜劇の舞台で「やめてチョウダイ」と奇声を発すると、これが観客にウケてたちまち評判となり、人気芸人の仲間入りを果たしたのでした。
ちなみに、この「やめてチョウダイ」は、観客を笑わそうと思って言ったわけではなく、当時の大阪での極貧生活から、自然に出た、財津一郎さんの心の叫びだったといいます。
1962年、28歳の時、「吉本新喜劇」に入団すると、当初は、東京から流れ着いて来たのだろうという厳しい視線を感じ、笑いを取るどころではなかったという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、大阪に打ち解けるための勉強を重 …
1967年、吉本興業に所属していた頃の財津一郎さん。
31歳の時に「非っ常にキビシ~ッ!」「~してチョウダィ!」のギャグで大ブレイク
さらに、財津一郎さんは、その後、出演中だった時代劇風人気コメディ番組「てなもんや三度笠」での、「非っ常にキビシ~ッ!「~してチョウダィ!」のギャグも評判となり、さらなる大ブレイクを果たします。
吉本新喜劇の舞台で、思わず叫んだ「やめてチョウダイ」のセリフが、たちまち評判となり、このことがきっかけで、人気芸人の仲間入りを果たした、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、その後、「非っ常にキビシ~ッ!」のギャグも評判と …
財津一郎の「非っ常にキビシ~ッ!」
30代前半の頃は藤田まことの「受けの芝居」を勉強していた
ただ、時代劇風人気コメディ番組「てなもんや三度笠」で演出を担当していた澤田隆治さんに、
ツッコミだけだと、次から次へと若い人たちがどんどん出てきて、存在感を失ってしまう
と、共演者である藤田まことさんの”受けの芝居”を勉強するよう言われたそうで、
財津一郎さんは、藤田まことさんの芝居を、舞台の袖で見ながら必死に勉強したのだそうです。
時代劇風人気コメディ番組「てなもんや三度笠」で、浪人・蛇口一角(へびぐち いっかく)役を演じると、劇中、甲高い声で叫ぶギャグ「非っ常にキビシ~ッ!」「~してチョウダィ!」が視聴者に受け、たちまち大ブレイクを果たした、財津 …
「てなもんや三度笠」より。(左から)藤田まことさん、白木みのるさん、財津一郎さん。
32歳の時に「吉本興業」に退職を願い出るもすぐには辞めさせてもらえなかった
こうして、財津一郎さんは、「吉本新喜劇」の舞台や時代劇風人気コメディ番組「てなもんや三度笠」でコメディアンとして成功を収めるのですが、
やがて、東京でブロードウェイミュージカルが上演されると、もともと、歌と演劇をしていたことから、演劇に戻りたくなり、「吉本興業」に退職を願い出たそうです。
ただ、「吉本興業」には、なかなか退職を認めてもらえず、専務から、あと、3年間、「吉本興業」で働くことを言い渡されてしまったのだそうです。
「吉本新喜劇」の舞台や時代劇風人気コメディ番組「てなもんや三度笠」で、コメディアンとして成功を収めるも、もともと、歌と演劇をしていた、財津一郎(ざいつ いちろう)さんは、やがて、東京でブロードウェイミュージカルが上演され …
35歳の時に「吉本興業」を円満退職
これに対し、財津一郎さんは、「吉本興業」にはお世話になったと、恩を感じていたこともあり、専務の言う通り、3年間、「吉本興業」で働いたそうで、
1969年、35歳の時、ようやく、「吉本興業」を、無事、円満退社することができたのだそうです。
財津一郎の30代後半(「吉本興業」退職後)~50代は俳優としてミュージカル、テレビドラマ、映画に出演
こうして、晴れて、「吉本興業」を退社した財津一郎さんは、東京に活動の拠点を戻すと、念願叶い、俳優として、数多くのブロードウェイ・ミュージカルに出演するほか、テレビドラマ、映画にも出演しています。
1953年、帝国劇場の舞台「赤い絨毯」で舞台デビューすると、以降、2011年に活動を停止するまで、コメディアン、俳優として、50年以上も芸能界で活躍を続けた、財津一郎(ざいつ いちろう)さん。今回は、そんな財津さんの出演 …
財津一郎が60代の時は脳内出血を発症するも開頭手術を受けて復帰し「タケモトピアノ」のCMが大きな話題になっていた
61歳の時には脳内出血を発症し開頭手術を受けていた
そんな財津一郎さんですが、1995年、61歳の時には、脳内出血を発症し、開頭手術を受けたといいます。
ちなみに、手術は無事に成功したものの、左半身に軽い麻痺が残ったそうですが、その後、リハビリに励み、無事、回復したそうです。
2000年、66歳の時には、「タケモトピアノ」のCMでコミカルなパフォーマンスを披露した(CMは2022年現在も放映中)、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、実は、61歳の時、「脳出血」と診断され、大手術を受けていた …
66歳の時に「タケモトピアノ」のCMに出演し「赤ちゃんが泣き止む魔法のCM」として大きな話題になっていた
そして、2000年、66歳の時には、「タケモトピアノ」のCMに出演すると、その後、深夜番組「探偵!ナイトスクープ」に、「赤ちゃんが泣き止む魔法のCM」として取り上げられ、大きな話題になっています。
コメディアンとしても俳優としても成功を収め、現在も、20年以上も続く「タケモトピアノ」のCMでコミカルな歌とダンスを披露している、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、この「タケモトピアノ」のCM、”赤ちゃ …
「タケモトピアノ」のCMより。
「タケモトピアノ」のCMが”赤ちゃんが泣き止む魔法のCM”として大きな話題になり、再ブレイクを果たした、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、今回は、そんな財津さんが「タケモトピアノ」のCMに出 …
財津一郎は70代の時に芸能活動を停止し妻と穏やかに暮らすも「脊柱管狭窄症」で足が不自由になり、そのうえ妻の体調も急激に悪化し老老介護していた
77歳の時に芸能活動を停止すると妻と平穏な日々を過ごしていた
そんな財津一郎さんですが、2011年、77歳の時には、テレビドラマ「3年B組金八先生ファイナル」の出演を最後に、余生を妻・ミドリさんと過ごすため、芸能活動を停止しています。
1965年、「非っ常にキビシ~ッ!」「~してチョウダィ!」のギャグで一躍ブレイクすると、以降、数多くの、テレビドラマ、映画、舞台に出演するほか、「タケモトピアノ」のCMは20年以上も放送されている、財津一郎(ざいつ いち …
そして、夫婦2人で大好きなゴルフをするなど、仕事にもお金にも追われることなく、平穏な日々を過ごしていたそうですが・・・
貧乏生活の中、同じ劇団「石井均一座」に所属していた、舞台女優のミドリさんに一目惚れし、その後、土下座してプロポーズし、結婚に至ったという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、結婚後もなかなか仕事にありつけなかったこと …
「脊柱管狭窄症」で足が不自由になったうえ、妻の体調が急激に悪化し介護を一人で担っていた
財津一郎さんは、「脊柱管狭窄症」で足が不自由になってしまったといいます。
さらに、追い打ちをかけるように、妻・ミドリさんの体調が急激に悪化してしまったそうで、足の不自由な財津一郎さんが、ミドリさんに代わって、すべての家事を担うほか、ミドリさんの介護も一人で担ったのだそうです。
2011年、77歳の時、テレビドラマ「3年B組金八先生ファイナル」の出演を最後に、芸能活動を停止した、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、2019年には、「NEWSポストセブン」の取材に応じ、近況を語っています。 「 …
「脊柱管狭窄症」で足が不自由になった状態で、妻・ミドリさんが倒れ、ミドリさんの介護と家事を1人で担っていたという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、2020年2月6日、ミドリさんが他界されます。 「財津一郎は足が不 …
財津一郎は89歳で死去
そんな中、妻のミドリさんは、2020年2月6日に他界されたそうですが、財津一郎さんも、2023年10月14日午後5時、89歳で、慢性心不全のため東京都内の自宅で他界されたのでした。
自身が緊急手術を受け、絶対安静中、同じ病院に妻のミドリさんが運び込まれ、ほどなく他界してしまったという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、そんなミドリさんとの間には、男の子が一人誕生しているといいます。今回は、その …
1953年、帝国劇場のミュージカル「赤い絨毯」で、バックコーラスの一員として初舞台を踏むと、1965年には、吉本新喜劇での「キビシー」「助けてチョーダイ」のギャグで、一躍、注目を浴び、その後は、タケモトピアノのCMでもお …