1971年、20歳の時、ステレオのコマーシャル音楽のレコーディングセッションに参加すると、「小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ」の活動を経て、1973年、21歳の時には、ロックバンド「キャラメル・ママ」を結成し、その後は、プロデューサー、アレンジャーとしての活動を中心に、ソロアーティストとしても1977年にアルバム「夜の旅人」をリリースしている、松任谷正隆(まつとうや まさたか)さん。
今回は、そんな松任谷正隆さんの、若い頃から現在までのアレンジ作品や経歴を時系列でまとめてみました。
「松任谷正隆の生い立ちは?幼少期から絶対音感も虚言癖とパニック障害!」からの続き
松任谷正隆は大学生(20歳)の時にフォーク・クルセダーズの加藤和彦にステレオのコマーシャル音楽を依頼されていた
1971年、20歳の時、高校時代の友人・菅節和さんのバック(ピアノ)で出場したアマチュアコンテストに優勝すると、審査員を務めていたフォーク・クルセダーズの加藤和彦さんに、ドラムの林立夫さんと共に声をかけられたという松任谷正隆さんは、
肝心の(ミュージシャンになりたい)菅節和さんが声をかけられていなかったことから戸惑ったそうですが、
ステレオのコマーシャル音楽を依頼されて、スタジオに呼ばれ、レコーディングに参加すると、1時間で1万3000円もらったそうで、好きなピアノを弾いてギャラがもらえたことが夢のようだったといいます。
松任谷正隆は大学生(20歳)の時に吉田拓郎のアルバム「人間なんて」に参加していた
そして、それから1週間後には、また加藤和彦さんに呼ばれ、今度は吉田拓郎さんと会うことになり、吉田拓郎さんのアルバム「人間なんて」にオルガンとバンジョーで参加したそうで、
この時はまだ、ミュージシャンとして生きていくとは思っておらず、右も左も分からなかったそうですが、その場にいるだけで楽しかったそうです。
(松任谷正隆さんは、吉田拓郎さんのシングル「結婚しようよ」(1972年発売)にも参加しているのですが、以降も、吉田拓郎さんの多くの作品に参加しており、吉田拓郎さんのバンドではリーダーを務めるなど、吉田拓郎さんに信頼されていたそうで、松任谷正隆さんも、豪快に見えながら、実は繊細で人に気を使うタイプの吉田拓郎さんが好きだったそうです)
吉田拓郎さんのシングル「結婚しようよ」
松任谷正隆が21歳の時には「小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ」に加入も自身の性格が原因で空中分解していた
そんな松任谷正隆さんは、大学生ながらプロダクションに所属すると、月給制でプロの道を歩みだしたそうで、
1972年には、小坂忠さん率いる「小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ」というバンド(林立夫さん、後藤次利さん、駒沢裕城さんがメンバー)に加入したそうですが、
コンサートツアーが嫌いだったことから、祖父や祖母が亡くなったと嘘をつき、ツアーのキャンセルを繰り返していると、
ついに、3人目の祖母を殺してしまったことで、嘘がバレてしまい、普段は温厚な林立夫さんもさすがに怒り、「小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ」は空中分解となってしまったのだそうです。
(松任谷正隆さんは、コンサートツアーが嫌いだったことのほかにも、「ライブレコーディングで異常に緊張する」「自分の意見が採用されない組織に耐えられない」などもあったそうで、リーダーの小坂忠さんから信頼が得られなかったそうです)
松任谷正隆は21歳の時に「キャラメル・ママ」(後の「ティン・パン・アレイ」)を結成するも・・・
そんな中、1973年、21歳の時には、細野晴臣さんが新バンドのキーボード奏者を探していると聞いた林立夫さん(すでに怒りも収まっていたそうです)に誘われ、
細野晴臣さん、林立夫さん、鈴木茂さんと共に、「キャラメル・ママ」(後の、「ティン・パン・アレイ」)を結成すると、
1975年には、アルバム「キャラメル・ママ」をリリースし、
その後も、
- 1977年「TIN PAN ALLEY 2」
- 1979年「メルヘン・ポップ」
を、リリースするのですが、
「キャラメル・ママ」は、職人的なバンドだったことから、皆の気持ちがバラバラで、松任谷正隆さんにとって、その活動は不本意なものだったといいます。
また、自分の音楽の方向性が見えていなかったことや、どんなに忙しくてもお給料は8万円だったこと、それに、「小坂忠とフォー・ジョー・ハーフ」にしても「キャラメル・ママ」にしても肌に合わず、この先、音楽で食べていけるのか不安だったそうで、
大学に入り直し、教職課程を取って音楽教師になろうと、真剣に考え始めていたのだそうです。
松任谷正隆は22歳の時に谷山浩子のシングル「お早うございますの帽子屋さん」で初めてアレンジに携わっていた
しかし、松任谷正隆さんは、1974年、22歳の時、谷山浩子さんのシングル「お早うございますの帽子屋さん」(1975年2月10日発売)で初めてアレンジを担当すると、このことがきっかけとなり、本格的にアレンジャーとしての活動を始めたのだそうです。
谷山浩子さんのシングル「お早うございますの帽子屋さん」
(ただ、この仕事は最終的には萩田光雄さんの手によるものとなっています)
松任谷正隆は26歳の時にはソロアルバム「夜の旅人」をリリース
以降、松任谷正隆さんは、アレンジャーとして活動するほか、1977年、26歳の時には、ソロアルバム「夜の旅人」をリリースしています。
松任谷正隆のアレンジ作品
それでは、ここで、松任谷正隆さんの主なアレンジ作品をご紹介しましょう。
- アグネス・チャンさんの、「アゲイン」「グッド・ナイト・ミスロンリー」ほか
- 朝比奈マリアさんの、「MARIA」
- 芦田愛菜さんの、「雨に願いを」
- アン・ルイスさんの、「チーク」ほか
- 石川ひとみさんの、「にわか雨」ほか
- 稲垣潤一さんの、「バチェラー・ガール」ほか
- 岩崎宏美さんの、「緋衣草」ほか
- イルカさんの、「なごり雪」ほか
- 大貫妙子さんの、「明日から、ドラマ」
- 岡田有希子さんの、「十月の人魚」ほか
- 尾崎亜美さんの、「MIND DROPS」ほか
- 梶芽衣子さんの、「去れよ、去れよ、悲しみの調べ」
- GAROさんの、「吟遊詩人」
- 来生たかおさんの、「SPARKLE」ほか
- 木の実ナナさんの、「ダンシング・ママ」ほか
- 木村佳乃さんの、「GIRL」ほか
- 小泉今日子さんの、「今日子の清く楽しく美しく」
- 西城秀樹さんの、「2Rから始めよう」
- 斉藤由貴さんの、「卒業」
- 沢田研二さんの、「酒場でDABADA」
- 柴田恭兵さんの、「なんとなく、クリスタル」
- 高田みづえさんの、「ふり向けば秋」
- 田原俊彦さんの、「銀河の神話」
- 中島みゆきさんの、「あわせ鏡、友情、夜曲」「B.G.M.」
- 中村雅俊さんの、「Shy Guy Masatoshi」ほか
- 光GENJIの、「Hi! 光GENJI」ほか
- 松田聖子さんの、「赤いスイートピー」「小麦色のマーメイド」「渚のバルコニー」「秘密の花園」ほか
- 八神純子さんの、「夢見る頃を過ぎても」
- 薬師丸ひろ子さんの、「Woman “Wの悲劇”より」ほか
- 山下久美子さんの、「バスルームから愛をこめて」ほか
- 山瀬まみさんの、「メロンのためいき」
- ゆずの、「Going Home」ほか
- 吉田拓郎さんの、「明日に向って走れ」ほか
ほか、
数多くのアーティストのアレンジを務めるほか、プロヂュースやコンサートの演出にも携わっています。
松任谷正隆の現在(60代~70代)はロックバンド「SKYE」で活動中
そして、松任谷正隆さんは、2019年、68歳の時には、ロックバンド「SKYE」に参加すると、
- 2019年9月25日(68歳)「禁断の果実」※佐野史郎 meets SKYE with 松任谷正隆名義
- 2021年10月27日(69歳)「SKYE」※デビューアルバム
- 2023年7月5日(71歳)「ALBUM」※佐野史郎 meets SKYE
- 2024年7月24日(72歳)「Collage」※2枚目のアルバム
を、リリースするなど、73歳となる2025年現在も精力的に活動中です。
「松任谷正隆と松任谷由実の馴れ初めは?結婚後の夫婦仲は?子供は?」に続く
1971年、加藤和彦さんに誘われ、ミュージシャンデビューを果たすと、バンド「キャラメル・ママ」(後のティン・パン・アレー)に参加し、その後は、アレンジャー、プロデューサーとして、妻である松任谷由実さんをはじめ、松田聖子さ …