1983年に阪神タイガースに入団すると、当初はパッとしなかったものの、入団3年目の1985年には、3番打者として、打率.350、54本塁打、134打点で、セ・リーグ外国人選手初の三冠王に輝く活躍で、チームの21年ぶりのリーグ優勝・日本一に大きく貢献すると、1986年にも2年連続三冠王に輝いた、ランディ・バース(randy bass)さん。
今回は、そんなランディ・バースさんの若い頃(米マイナーリーグ時代)から現役引退までの成績や経歴を時系列でご紹介します。
ランディ・バースは18歳の時から5年間マイナーでメジャーに昇格することができなかった
ランディ・バースさんは、1972年、18歳の時、ミネソタ・ツインズにドラフト7巡目で入団しているのですが、
そのパワーは認められていたものの、守備に難があったことから、メジャーリーグに昇格することができず、5年間、マイナーリーグに在籍していました。
ランディ・バースは23歳の時にメジャーに昇格するもぱっとせず移籍を繰り返していた
そんなランディ・バースさんも、1977年、23歳の時には、ついに、ミネソタ・ツインズのメジャーに昇格し、長打力が期待されたのですが・・・
あまり出場機会に恵まれない中、”ウォーニングトラック・フライボールヒッター”と揶揄(やゆ)され、
その後も、
- 1978年には、カンザスシティ・ロイヤルズ
- 1979年には、モントリオール・エクスポズ
- 1980年には、サンディエゴ・パドレス
- 1982年には、テキサス・レンジャーズ
と、移籍するも、どの球団でも成績はパッとしなかったのでした。
1982年12月、阪神タイガースに入団すると、1985年、1986年と2年連続の三冠王となるほか、1986年に記録した打率3割8分9厘は、いまだ誰にも破られていない驚異的な成績を挙げ、「史上最強の助っ人」と称された、ラン …
ランディ・バースは28歳の時に阪神タイガースに入団
そんなランディ・バースさんは、やがて、ヤクルトスワローズに売り込まれると、ヤクルトもランディ・バースさんに強い関心を寄せたことから、入団が決まりかけたのですが・・・
膝の故障で守備に難があり、一塁しか守れないことが原因で、この話はお流れとなってしまいます。
それでも、その後、阪神タイガースと阪急ブレーブスがランディ・バースさんの獲得に動くと、最終的には、1982年12月、阪神タイガースへの入団が正式に決まったのでした。
高校卒業後、ミネソタ・ツインズに入団するも、5年間をマイナーリーグで過ごし、ようやくメジャーに昇格しても、ウォーニングトラック・フライボールヒッターで出場機会に恵まれず、その後、カンザスシティ・ロイヤルズ、モントリオール …
ランディ・バースは29歳(阪神タイガース入団1年目)の時に早くも解雇の候補に上がっていた
ただ、阪神入団1年目の1983年は、外角に落ちる変化球をことごとく空振りするなど、なかなか調子が上がらず、早くも解雇の候補に。
そんな中、そのパワーや人格(努力する態度など)を評価され、なんとか解雇を免れると、1983年後半戦から一気に調子を上げ、後半戦だけで26本塁打を放つ活躍したのでした。
ヤクルトスワローズへの入団が決まりかけるも、膝の故障により守備に難があり外野を守れないことで、ヤクルトが手を引き、最終的には、1982年12月、阪神への入団が正式に決まった、ランディ・バース(Randy Bass)さんで …
ランディ・バースは30歳(阪神タイガース入団2年目)の時に吉田義男新監督の強い要望で解雇を免れていた
それでも、翌1984年は、阪神タイガースの構想外となっていたのですが、
新しく阪神の監督に就任した吉田義男監督が、ランディ・バースさんの打棒が絶対に必要と考え、残留を強く要望したことから、解雇を免れ、残留が決定したのでした。
阪神入団1年目の1983年は、当初、外角に落ちる変化球をことごとく空振りし、早くも解雇の危機に直面するも、そのパワーのほか、態度、努力、人格を評価され、なんとか解雇を免れたという、ランディ・バース(Randy Bass) …
ランディ・バースは31歳(阪神タイガース入団3年目)の時に三冠王に輝き阪神の21年ぶりのリーグ優勝と球団初の日本一に大きく貢献していた
すると、ランディ・バースさんは、入団3年目の1985年シーズン、開幕3試合は調子が上がらなかったものの、開幕4試合目の4月17日、甲子園での巨人2回戦で、バックスクリーンに逆転3ランホームランを放つと、その後は絶好調となり、
1985年シーズンは、開幕戦の広島戦(広島市民球場)で、左腕・大野豊投手に4打数ノーヒットに抑えられると、第2戦の試合前には、広島の先発が、またしても左腕の川口和久投手だと分かるやいなや、ベンチ裏に吉田監督を呼び、オーダ …
このシーズン、最終的には、打率3割5分、54本塁打、134打点という驚異的な成績で三冠王に輝き、阪神のリーグ優勝と球団初の日本一に大きく貢献したのでした。
1985年シーズンは、開幕3試合で、15打数2安打6三振、本塁打ゼロながら、開幕4試合目の4月17日、甲子園での巨人2回戦で、掛布雅之選手、岡田彰布選手と共に、バックスクリーン3連発を放った、ランディ・バース(Randy …
1985年4月17日、甲子園での阪神・巨人戦で3ランホームランを放つランディ・バースさん。
1985年シーズン、打率3割5分、54本塁打、134打点という驚異的な成績で三冠王に輝き、阪神タイガースの21年ぶりのリーグ優勝および初の日本一に大きく貢献し、MVPも獲得した、ランディ・バース(Randy Bass)さ …
ランディ・バースは32歳(阪神タイガース入団4年目)の時に2年連続三冠王に輝いていた
その後も、ランディ・バースさんの快進撃は続き、入団4年目の1986年も、NPB記録となる打率3割8分9厘、47本塁打、109打点で、2年連続三冠王に。
ただ、チームは、連覇どころか、優勝した広島カープに13.5ゲーム差もつけられ3位に終わってしまったことから、ランディ・バースさんは、そんなチームの状態に苛立ち、吉田義男監督の采配を批判したといいます。
阪神入団3年目の1985年、打率3割5分、54本塁打、134打点という驚異的な成績で三冠王に輝いた、ランディ・バース(Randy Bass)さんは、翌1986年も、打率3割8分9厘(NPB記録)、47本塁打、109打点で …
ランディ・バースは33歳(阪神タイガース入団5年目)の時にも好成績を残していた
また、ランディ・バースさんは、1987年も相変わらず絶好調で、打率3割2分、37本塁打、79打点という好成績を残すのですが・・・
チームの方はというと、とうとう最下位に沈んでしまったのでした。
ランディ・バースは34歳(阪神タイガース入団6年目)の時に長男が水頭症を患い手術を受けさせるため急遽帰国すると突然解雇されていた
そんな中、入団6年目の1988年、ランディ・バースさんの8歳の長男・ザクリー君が水頭症を患い、緊急手術を受けると、
その後、世界的権威の専門医がいるカリフォルニア州立大学医学部付属病院で再手術を受けさせるため、ランディ・バースさんも、急遽、帰国することとなり、
1985年、1986年、2年連続三冠王に輝いた、ランディ・バース(Randy Bass)さんは、1987年も好成績を残すのですが、1988年は、息子のザクリー君が水頭症で緊急入院となって野球どころではなくなり、5月6日の …
帰国する際、阪神球団と、
5週間後の6月17日までに帰国する
という契約を結び、アメリカ帰国後も阪神球団と電話で連絡を取り合っていたそうですが・・・
なんと、1988年6月27日、突然、解雇されたというのです。
1988年、息子のザクリー君が水頭症を患い、緊急手術を受けるも、アメリカで再手術を受けるため、阪神球団とは、「5週間後の6月17日までに帰国する」ということで話がまとまっていたという、ランディ・バース(Randy Bas …
実は、その背景には、ザクリー君の治療費を巡る問題があり、保険に入っていなかった阪神球団が、多額の医療費を負担することを恐れて、ランディ・バースさんを解雇したと言われています。
息子・ザクリー君の手術と治療のため、阪神球団とは「5週間後の6月17日までに帰国する」ということで話がまとまり、アメリカ帰国後も、連絡を取り合っていたにもかかわらず、6月27日、突然、解雇されてしまったという、ランディ・ …
ランディ・バースは34歳の若さで現役を引退していた
そんなランディ・バースさんは、その後、中日とダイエーからオファーがあったと言われているのですが、
息子・ザクリー君の治療費が大きな原因で阪神球団から解雇されたと言われている、ランディ・バース(Randy Bass)さんは、そのまま、引退となっているのですが、実は、中日、ヤクルト、ダイエーからオファーがあったといいます …
最終的には、どちらの球団へも入団は実現せず、日本野球界に復帰することなく、1988年に現役を引退したのでした。
1983年、阪神タイガースに入団すると、1985年には、打率3割5分、54本塁打、134打点という凄まじい成績で、セ・リーグの外国人選手初となる三冠王に輝き、阪神の21年ぶりの優勝と2リーグ制後初の日本一に大きく貢献する …