自身が緊急手術を受け、絶対安静中、同じ病院に妻のミドリさんが運び込まれ、ほどなく他界してしまったという、財津一郎(ざいつ いちろう)さんですが、そんなミドリさんとの間には、男の子が一人誕生しているといいます。今回は、その息子さんとそのお子さん(孫)をご紹介します。
「財津一郎は自身が緊急入院中に妻が同じ病院に担ぎ込まれていた!」からの続き
医師の強い反対を押し切って外出許可をもらい妻の通夜と告別式を執り行っていた
自身が7時間もの大手術を受け、医師から絶対安静と言われている中、妻のミドリさんが、肺呼吸に問題が起きて自力で呼吸できなくなり、同じ病院に担ぎ込まれると、まもなく他界したという財津さんは、
医師の強い反対を押し切り、2日間だけ外出許可をもらうと、自宅で、ミドリさんの通夜と告別式を執り行ったそうで、四十九日にあたる3月末にも、再び、外出許可を取り、自身の手で、ミドリさんのお骨をお墓に納めたそうです。
(財津さんの入院は2ヶ月を超えており、この時はまだ入院中だったそうです)
息子の財津功は日本テレビのプロデューサー
ちなみに、そんなミドリさんと財津さんの間には、1961年8月22日に男の子が1人誕生しているのですが、財津功さんというそうで、
功さんは、日本テレビのプロデューサーとして、「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(1985~1996)、「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」(1991~2001)、「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ!!」(1989~1996)などを手掛けたそうです。
息子の財津功さん(左)と財津さん(右)。
孫は俳優の財津優太郎
また、1999年7月5日には、息子の功さんに男の子が誕生したそうで、財津優太郎さんといい、2019年5月、「劇団番長ボーイズ☆」に候補生として加入すると、舞台「壬生狼ヤングゼネレーション」で初舞台を踏み、2020年10月には、バラエティ番組「踊る!さんま御殿!!」に出演するなど、俳優・タレントして活動しているそうで、
財津さんは、2020年、「週刊現代」のインタビューで、
孫は、大学を出たら本格的に役者の道へ進むつもりなんです。僕は引退してずいぶん経っているから、手助けしてやることはできない。遠くから見守るだけです。(優太郎さんは2020年現在大学3年生)
でも、芸能の世界に生きた僕とママの命がつながって、孫が同じ世界を目指しているというのは、不思議な気持ちになります。血は争えないというか、『人間の命は、こうやってつながっていくんだな』と。
願わくは、あと少しだけ孫の成長を見守って、それからママの元へ行けたら、悔いはありません
と、現在の唯一の楽しみは、優太郎さんの成長を見守ることだと語っています。
財津さん(左)と孫の財津優太郎さん(右)。
さて、いかがでしたでしょうか。
財津一郎さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?
- 本名は?
- 芸名の由来は?
- 財津和夫とは遠い親戚だった
- 5歳の時に熊本から東京に転居
- 幼少期は優しい両親のもとすくすく育っていた
- 太平洋戦争が開戦し故郷・熊本へ疎開
- 疎開先の熊本では熊本弁がわからず無口になりイジメられていた
- 小学5年生の時に玉音放送で終戦を知る
- 終戦後も父親がシベリアに抑留されたままで極貧生活を余儀なくされていた
- 進駐軍(アメリカ軍)のトラックや兵隊を見て圧倒されていた
- 当時の警官は戦争に負けても日本人のプライドを持っていた
- 不発弾が爆発して子供がバラバラに吹き飛ばされるのを目撃する
- 母親が「かっけ」になり、食べ物をもらうため農家を回っていた
- 袋いっぱいの大豆をもらうも悪ガキたちに絡まれる
- 泥まみれになった大豆を見て涙が止まらなかった
- 遠くからおばあさんが手招きしているのが見えた
- おばあさんはお餅を焼いて食べさせてくれた
- 母親はお餅を差し出すと涙を流していた
- 「農地開放」で先祖代々の土地を失っていた
- 母親が農作業中に突然大声で泣き出す
- 母親は夫の安否が分からない不安の中6人の子供を育てていた
- 「農地開放」で「地主の子」とイジメられていた
- 阿蘇農業高校の先生に「根アカ」の精神を教えられ勇気づけられる
- 阿蘇農業高校の先生の言葉には重みがあった
- 父親が復員するも別人のようになっていた
- 29歳の時に父親が他界
- 第五高等学校(現・熊本大学)の男性合唱団の歌声に魅了され合唱に夢中になる
- 高校生の頃は歌の個人レッスンを受けていた
- 映画やブロードウェイミュージカルにも夢中になっていた
- 「ベニスの商人」で大役に抜擢されるもセリフを間違え大問題になっていた
- シェークスピアの英語劇「ベニスの商人」の演技が高く評価される
- 早稲田大学を受験するも不合格に
- 浪人して早稲田大学を再受験しようとするも途中で断念
- 帝国劇場に研究生として入団
- オペレッタ(軽歌劇)「赤い絨毯」でデビュー
- 帝国劇場が解散
- ピンチをチャンスに変えようと芸を極める決意をする
- 米軍キャンプのジャズシンガーに合格
- 人気ジャズシンガーのアル・ジョンソンをマネて黒塗りの顔で歌うよう依頼される
- アル・ジョルソンになりきってショーを成功させるも・・・
- 激怒した黒人兵に絡まれる
- 若いMP(憲兵)に助けられる
- ジャズシンガーを辞め演劇を学ぶ決意をする「榎本健一映画研究所」に入所
- 榎本健一と越路吹雪のデュエット「アイ・ラブ・ユー」のコーラスボーイをしていた
- 榎本健一から強烈な形で薫陶を受けていた榎本健一は台湾に巡業に出かけたままなかなか帰って来なかった
- 榎本健一から大声でダメ出しされる
- 榎本健一の鬼気迫る演技に圧倒される
- 榎本健一には悲劇のつもりで喜劇をやれと教えられる
- 榎本健一への想い
- 「榎本健一映画演劇研究所」卒業後さらに修行を積もうとするも・・・
- 職業安定所に通う日々だった
- 野球場から飛んできたボールを追いかけて来たのは仲代達矢だった
- 仲代達矢を前に情けなさがこみ上げてきた
- 「石井均一座」に入座を懇願
- 「石井均一座」に入座するもまもなく解散
- 「劇団ムーラン」に入団するも・・・
- 「劇団ムーラン」もまもなく解散
- 劇作家で俳優の小崎政房から「宝塚新芸座」を紹介してもらう
- 「宝塚新芸座」だけでは満足できなかった
- 小崎政房から「吉本興業」を紹介してもらう
- 「吉本興業」に入団
- 吉本新喜劇に出演するも芸に厳しい大阪人を前に笑いをとることができなかった
- 大阪の文化を理解するため映画「夫婦善哉」を観ることを思いつく
- 大阪の人々と触れ合うよう努力していた
- 自分をさらけ出すことで大阪の人々と仲良くなれた
- 「吉本新喜劇」での劇団員生活は多忙を極めていた
- 「やめてチョウダイ」がたちまち評判になる
- 「やめてチョウダイ」は心の叫びだった
- 当初は「チョウダイ」を持ちネタにしようとは思っていなかった
- 「非っ常にキビシ~ッ!」「~してチョウダィ!」のギャグでブレイク
- 「てなもんや三度笠」は超人気番組だった
- 常に謙虚な姿勢でいることを心がけていた
- 吉本新喜劇の座長になってようやくコメディアンとし食べていけるようになる
- 藤田まことの「受けの芝居」を勉強していたテレビドラマ「はぐれ刑事純情派」の撮影で藤田まことと久々に再会
- 藤田まことに最後に会った時には抱き合って再会を喜んでいた
- ブロードウェイミュージカルが上演されると東京に戻りたくなる
- 退職願を持って「吉本興業」の専務を尋ねるも居留守を使われる
- 「吉本興業」の専務はすぐには退職を許してくれなかった
- 「吉本興業」退社後は東京に戻りブロードウェイミュージカルに数多く出演
- 出演作品(テレビドラマ)
- 出演作品(映画)
- 出演作品(CM)
- 受賞歴
- 著書
- タケモトピアノのCMは赤ちゃんを泣きやませる?
- 財津一郎の声は赤ちゃんが好む440ヘルツ周辺の音域だった
- 「タケモトピアノ」の竹本功一会長が財津一郎の大ファンだった
- 「タケモトピアノ」の会社理念に共感していた
- 「タケモトピアノ」のCMでは女性ダンサーたちと一緒に踊るはずだった
- 働いていない現在も「タケモトピアノ」のCMのお陰で生活
- 妻には一目惚れだった
- 稽古帰りに毎日家まで送っていた
- 土下座してプロポーズ
- 仕事がなく貧しい新婚生活だった
- 大阪では田んぼの農機具小屋に住んでいたことも
- お寺の納骨堂の横の納屋を無料で貸してもらって暮らしていた
- 妻が嫁入り道具と着物を売ってお金を工面してくれていた
- 極貧生活での心の叫び(やめてチョーダイ)でブレイクし裕福な暮らしができるようになっていた
- 「脳出血」で10時間以上にも及ぶ開頭手術を受けていた
- 手術後は後遺症もなく無事回復
- 余生を妻と過ごすため77歳の時に芸能活動を停止
- 脊柱管狭窄症で足が不自由になっていた
- 妻が倒れる
- 妻が倒れてからは家事の全てを一人で担っていた
- 妻の気持ちを思いデイサービスの利用は出来なかった
- 妻が他界
- 妻の他界の直前に財津一郎は緊急手術を受けていた
- 妻が同じ病院に担ぎ込まれる
- 妻は亡くなる直前に感謝の言葉を口にしていた
- 医師の強い反対を押し切って外出許可をもらい妻の通夜と告別式を執り行っていた
- 息子の財津功は日本テレビのプロデューサー
- 孫は俳優の財津優太郎
について、まとめてみました。
朝起きて、夜寝て、また朝が来る。変わらない日々の繰り返しだけど、僕にはこの家を守る義務がある。ママとの思い出がたくさん詰まっているからね。家をやつれさせてはいけない。
あとは、生前整理を進めています。来るべき日に、せがれや孫に迷惑をかけることはしたくない。人生最後の『ホームストレート』を綺麗に駆け抜けたいんです
と、語っていた財津さん。
是非、孫の優太郎さんと共演できる日までお元気でいてほしいものです。
「財津一郎の本名は?芸名は吉本興業の社長が名付け親だった!」