1976年、シーズン途中にヤクルトスワローズの監督に就任すると、1978年には、ヤクルトスワローズを球団初のリーグ優勝&日本一に導き、1982年から西武ライオンズの監督を務めると、4年間で3度のリーグ優勝と2度の日本一に導き、西武黄金時代の礎を築いた、広岡達朗(ひろおか たつろう)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょうか。今回は、そんな広岡さんのご家族についてご紹介します。
「広岡達朗が西武監督時代4年で優勝3回&日本一2回も突然辞任した理由とは?」からの続き
子供は少なくとも息子1人と娘1人
広岡さんは、プライベートなことを一切明かしておらず、奥さんについて詳しいことは不明ですが、子供は、少なくとも2人(息子1人と娘1人)は誕生しているそうで、息子(長男)は克己さん、娘は祥子さんというそうです。
ただ、名前以外は、情報がなく、芸能関係者ではないようです。
ちなみに、祥子さんは、昔、フジテレビが作った女子野球チーム「ニューヤンキース」で主力選手として活躍していたそうですが、フジが、祥子さんに芸能活動をさせようとしたことに、お父さんの広岡さんが反対したことから、初期段階で脱退したのだそうです。
孫娘(長男の娘)は女優で元宝塚歌劇団の麻央侑希
また、長男の克己さんの娘は、女優で元宝塚歌劇団の麻央侑希(まお ゆうき)(本名は侑希子)さんだそうで、2006年に宝塚音楽学校に入学すると、2008年、宝塚音楽学校を卒業して宝塚歌劇団に94期生として入団し、男役として活動。2019年に宝塚歌劇団退団後は女優として活動しているそうです。
長男・克己さんの娘の麻央侑希さん。
孫娘・麻央侑希の宝塚音楽学校の卒業式に出席していた
ちなみに、2008年、宝塚音楽学校の卒業式が開催された際、広岡さんは、孫娘・麻央侑希さんの晴れ姿を見るために出席し、報道陣の求めに応じて笑顔でツーショットを披露しているのですが、
広岡さんは、報道陣の取材に対し、麻央さんの宝塚音楽学校受験にあたって、
やりたいことがあるならやった方がいい
と、積極的に賛成したことを明かすほか、
宝塚音楽学校の整然とした卒業式にいたく感動し、
(宝塚音楽学校はしつけが厳しいことで有名なことから)今どき、こんな教育をしてくれるところは珍しい。ちゃんとあいさつができるようになった
と、ご満悦だったそうです。
孫娘の麻央侑希さんと広岡さん(宝塚音楽学校の卒業式)
さて、いかがでしたでしょうか。
広岡達朗さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 父親は職業軍人だった
- 父親は厳格だったが、母親は優しかった
- 幼い頃は軍人に憧れていた
- 幼少期は両親や兄姉の愛情を一心に受けてすくすくと育つ
- 中学時代は海軍兵学校を夢見て勉強と運動に励んでいた
- 米軍の大規模空襲を受けていた
- 日本には「神風」が吹くと本気で信じていた
- 広島に原爆が落とされ黒い雨が降っていた
- テニスかバレーボールをしようと思っていたが・・・
- 野球部ではボロボロになったボールの縫直しをするほか資金のためバイトをしていた
- 高校時代は三塁で激しいノックを受けていた
- 高校3年生の時には県大会の決勝まで進むも甲子園出場は果たせなかった
- 早稲田大学野球部の入部テストを受けるよう勧められる
- 早稲田大野球部の入部テストでは他の受験者は大したことがないと感じていた
- 早稲田大学法学部は不合格も教育学部を受験し合格
- 早稲田大学野球部では三塁手から遊撃手に転向
- 早稲田大学野球部時代に罰則でたくさん走らされたことがプラスになっていた
- 東京六大学野球リーグでは「早稲田の貴公子」と呼ばれていた
- 大学3年生の時プロ野球数球団から入団を勧誘されるも巨人に入団したかった
- 憧れの巨人から誘われるも球団事務所に来るように呼びつけられたことに不満を持っていた
- 父親からは西鉄(現・西武)を勧められていた
- 巨人は上下関係が厳しかった
- 川上哲治らから「誰がこんな選手取った」と聞こえるように言われたことも
- 新人時代は打撃を教えてくれる人がおらず悩んでいた
- 平井三郎に教えを請うと親切にも教えてくれた
- 平井三郎のアドバイスで次第に打てるようになっていった
- ルーキーで正遊撃手となり新人王を獲得
- 川上哲治に大好きだった長兄の面影を重ね憧憬を抱くようになっていたが・・・
- 巨人軍に入団した当初は川上哲治がプロ入り14年目で4番打者として君臨していた
- 親しみを込めてかけたつもりの言葉が川上哲治を逆上させていた
- 川上哲治は試合中でも胸付近の送球しか捕らなかった
- 洋松ロビンス戦で9回裏2死の時にもジャンプすれば捕れる球をファーストの川上哲治は捕らなかった
- 思わず記者に川上哲治のことを「下手くそ」と言っていた
- 川上哲治へは、慕っていた分、憎しみが倍増していた
- 守備が上達せず川上哲治からは聞こえるように嫌味を言われていた
- アメリカ・大リーグのドン・ブラッシンゲーム(ブレイザー)のプレーを見て守備を開眼していた
- ブラッシンゲーム(ブレイザー)の真似をして早く準備をするように心がけるように
- 合気道の教えも野球に役立てていた
- ドン・ブレイザーをお手本にリーグを代表する遊撃手に成長
- 川上哲治が監督になると、これまでのことを水に流して協力してほしいと頭を下げられていた
- 川上哲治に早稲田大学の同窓・荒川博をコーチにするよう進言していた
- ミーティングでは川上哲治に恥をかかせたことも
- 神宮の乱(長嶋茂雄ホームスチール激怒事件)
- 川上哲治監督に怒り試合の途中で帰宅していた
- 同僚の藤田元司から川上哲治監督に謝罪するよう説得されるも従わなかった
- 以前に立ち消えとなっていたトレード話が再燃
- トレードを拒否し巨人での現役引退を決意
- 正力亨オーナーの父親・正力松太郎に巨人を辞めるなと言われていた
- 会食で川上哲治に批判されるも正力亨オーナーとの約束から反論せずに黙って聞いていた
- 再び現役引退を申し入れるも周囲から正力松太郎に背いてはいけないと説得されていた
- ひっそりと現役を引退していた
- 後輩に守備技術を快く教えていた
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- 新人王、野球殿堂競技者表彰、ベストナインほか受賞
- 背番号
- 自分の野球が正しいことを巨人に証明するためメジャー・リーグを視察
- ベロビーチでキャンプ中の巨人軍を陣中見舞するも巨人からスパイ扱いされていた
- 巨人への復讐を胸に誓っていた
- 森昌彦(森祇晶)だけは度々ホテルに訪ねて来てくれた
- アメリカでは投手の役割が明確だった
- アメリカでは選手は苦手なことも積極的に挑戦しアピールしていた
- 帰国後は自ら直談判してサンケイスポーツの評論家に採用される
- サンケイスポーツ評論家時代は「一点絞り」を指導されていた
- 広島東洋カープの根本陸夫監督に要請され内野守備コーチに就任
- 苑田聡彦外野手を内野手へ転向させるよう要請されるも当初はさじを投げていた
- 苑田聡彦を正遊撃手に育てあげ、選手を育てる意味と意義を学んでいた
- 苑田聡彦によるコメント
- ヤクルト監督時代は選手に厳しい管理体制を敷いていた
- メジャーリーグ方式の中4日を採用していた
- ヤクルトを球団史上初のシーズン2位に導く
- ヤクルトを球団史上初の2位に導くも満足していなかった
- ヤクルトを初のリーグ優勝&日本一に導く
- 指導者としての自分があるのは苑田のお陰と言っていた
- ヤクルトを日本一に導いた直後、阪神監督就任と報道されていた
- ヤクルトを日本一に導いた時点で退団を決意していたが・・・
- 関係各社から体裁が悪いと監督辞任を反対されていた
- 監督留任交渉の席では主導権を握っていた
- 記者会見では勝ち誇った表情を見せていた
- ヤクルトの監督に留任するも禍根を残していた
- 1979年は開幕から主力選手が次々と故障離脱して低迷していた
- ヤクルト球団と揉めた末にヤクルトを退団
- 近鉄からの監督就任要請を断っていた
- 阪神からも監督就任要請を受けるも契約年数で折り合わず破談となっていた
- 西武ライオンズの根本陸夫から監督就任の要請を受けていた
- 西武ライオンズ監督就任に際しては自身にも厳しい契約に納得していた
- 西武でもヤクルト監督時代と同様の管理体制を敷いていた
- 田淵幸一が起死回生となる逆転2ランホームランを放っていた
- 西武ライオンズを初のリーグ優勝&日本一に導く
- 日本シリーズでは巨人を破って日本一に輝いていた
- ミーティングの始めにおちゃらけながらアカペラを歌って選手たちを鼓舞していた
- 1984年は3位に終わるも若手選手主体に切り替えていた
- コーチ陣も一新していた
- 若手&生え抜き選手でリーグ優勝を果たしていた
- 5年契約を1年残して、突然、監督を辞任していた
- 西武ライオンズを4年間で3度のリーグ優勝と2度の日本一に導くも監督をクビになった理由とは?
- 監督時代の成績が凄すぎる
- 子供は少なくとも息子1人と娘1人
- 孫娘(長男の娘)は女優で元宝塚歌劇団の麻央侑希
- 孫娘・麻央侑希の宝塚音楽学校の卒業式に出席していた
について、まとめてみました。
1988年オフには、巨人から監督要請が来た。だけど、(当時監督の)王をクビにして、その後釜でという話だったから、そんな席にヌケヌケと座れるかと思って断ったんだ
と、語っていた広岡さん。
最近は、独自の批評で、「老害」扱いされることの多い広岡さんですが、何人もの球団フロントらと1人で戦うほか、自分を裏切り者扱いした巨人を打倒することを誓って他球団の監督となり、見事、巨人を打ち負かし、最後には、巨人からの監督就任打診まで断った自負がそうさせるのかもしれません。
さておき、広岡さんには、まだまだ、誰にも忖度することのない独自の批評を聞かせてもらいたいものです。
「広岡達朗の幼少期は両親や兄姉の愛情を一心に受けすくすくと育っていた!」