1959年、巨人(読売ジャイアンツ)に入団すると、1962年に「一本足打法」で本塁打を量産し、初の本塁打王となると、以降、13年連続を含む15回の本塁打王に輝くなど、巨人V9の立役者として活躍した、王貞治(おう さだはる)さん。
今回は、そんな王貞治さんの高校野球時代からプロ野球現役時代までの活躍や経歴を時系列でご紹介します。
「王貞治の生い立ちは?幼少期は病弱も小4で野球を始め中2で左打ちに転向していた!」からの続き
王貞治の10代の頃
高校1年の時には野球部入部10目でレギュラーになっていた
王貞治さんは、1956年4月、15歳の時、進学校・都立墨田川高校への受験に失敗したことから、いち早くスカウトしてくれた早稲田実業高校へ進学し、野球部に入部すると、
入部10日目にして、レギュラーとなるほか、1年生にもかかわらず、3年生の徳武定之さん(後に国鉄スワローズ(現・ヤクルト))と醍醐猛夫さん(後に毎日オリオンズ(現・ロッテ))のお手本にされたそうです。
また、投手としても、軟式球よりも重い硬式球にすんなり適応でき、当初は50球を過ぎると球が重く感じたそうですが、毎日200球以上投げ込むうちにすっかり慣れたそうです。
進学校への受験に失敗したことから、いち早くスカウトしてくれていた早稲田実業高校へ進学した、王貞治(おう さだはる)さんは、野球部に入部すると、わずか10日でレギュラーに起用され、1年生にして、3年生のバッティングのお手本 …
高校1年生の時に夏の甲子園2回戦で敗退
そんな王貞治さんは、それから1ヶ月後の1956年5月3日、春季都大会決勝の日大三高戦に登板すると、(後に阪神タイガースに入団する)並木輝男さんらの強力打線を封じ、4対0で勝利。
そして、夏の甲子園東京都予選では、1年生ながら、5番を任されると、早稲田実業高校はあれよあれよと勝ち進み、見事、夏の甲子園出場を決めています。
(ただ、夏の甲子園では、2回戦で、初めて先発に起用されるも、立ち上がりに3四球から失点して、1対8と惨敗)
早稲田実業高校へ進学し、野球部に入部すると、入部10日でレギュラーに起用され、1年生ながら、3年生のバッティングのお手本にされるなど、ずば抜けて野球が上手だった、王貞治(おう さだはる)さんは、その1ヶ月後には、春季都大 …
早稲田実業高校野球部では、入部10日でレギュラーとなり、その1ヶ月後には、春季都大会決勝という大事な試合に登板して相手打線を完封するなど、1年生にして、早稲田実業高校の甲子園出場に大きく貢献した、王貞治(おう さだはる) …
早稲田実業高校では、早くも1年生にして、夏の甲子園東京都予選から5番レギュラーに抜擢されると、見事、夏の甲子園出場を決めた、王貞治(おう さだはる)ですが、夏の甲子園2回戦では、初めて先発すると、立ち上がりに3四球から失 …
1956年の夏の甲子園2回戦では、1年生にして先発に起用されるも1対8で惨敗してしまい、3年生にちょっとしたしこりを残したという、王貞治(おう さだはる)ですが、その年の秋にノーワインドアップ投法に変更すると、翌年の春の …
高校2年生の春の選抜大会、準々決勝では投打ともに活躍し早稲田実業高校を準決勝に導いていた
また、王貞治さんは、1957年4月4日、高校2年生の春の選抜大会、初戦の大阪・寝屋川高校戦では、エースで4番として出場すると、
寝屋川高校の島崎武久投手といずれも譲らぬ投手戦を展開し、最終的には、0対0で迎えた5回に3年生の主将・堀江康亘さんが叩き出した1点を1安打投球で守りきって勝利。
翌日の4月5日に行われた、山口県立柳井高等学校戦との春の選抜大会準々決勝では、打つ方では4打数2安打2打点、投げる方では5安打無四球完封と、4対0で勝利し、早稲田実業高校を準決勝に導いています。
高校2年生の春の選抜大会で3試合連続完封勝利していた
そんな王貞治さんは、続く、準決勝の久留米市立久留米商業高等学校戦でも完封し(6対0)、3試合連続完封で決勝に進出すると、決勝では完封こそ逃したものの、5対3で完投勝利して、見事、優勝し、
王貞治さんは、この、春の選抜大会での優勝がきっかけに、一躍、全国的に注目されるようになったのでした。
(早稲田実業高校は、1905年(明治38年)の創部以来、初の優勝だったそうです)
1957年、2年生で迎えた、春の選抜大会準々決勝、山口県立柳井高等学校戦では、打つ方は4打数2安打2打点、投げる方は無四球完封の大活躍で4対0と勝利し、準決勝に進出した、王貞治(おう さだはる)さんは、準決勝でも完封して …
高校2年生の夏の甲子園大会で延長ノーヒット・ノーランを達成していた
その後も、王貞治さんの活躍は続き、1957年、高校2年生の時には、夏の甲子園の予選も順調に勝ち抜き、決勝の日大一高戦も11対0で圧勝し、3季連続の甲子園出場を果たします。
そして、王貞治さんは、夏の甲子園2回戦、春の選抜でも対戦した大阪・寝屋川高校戦では、(春の選抜の時と同様に)島崎武久投手の投手戦を展開すると、
早稲田実業高校が11回表に先制し、王貞治さんが11回裏、寝屋川高校の攻撃を無安打でおさえ、見事、延長ノーヒット・ノーランで、早稲田実業高校を1対0の勝利に導いています。
(ただ、残念ながら、夏の甲子園大会の準々決勝では、神奈川県法政大学第二高等学校(法政二高)に2対1で逆転負けを喫しています)
1957年、2年生で迎えた春の選抜大会で、早稲田実業高校を創部以来初の優勝に導き、全国的に注目される選手になった、王貞治(おう さだはる)さんは、その後も、活躍を続け、夏の甲子園出場も決めると、2回戦の大阪・寝屋川高校戦 …
高校3年生の春の選抜大会で史上4人目となる2試合連続本塁を放っていた
その後も、王貞治さんの活躍はとどまることを知らず、1958年、高校3年生の春の選抜大会では、史上4人目となる2試合連続本塁を放っています。
(チームとしては、2試合目の熊本県立済々黌高校戦で敗退)
高校3年生の時に阪神のスカウト・佐川直行さんに熱心に口説かれ、阪神入りを考えるようになっていった
そんな王貞治さんは、プロ野球のスカウトからバッターとして注目されるようになるのですが、この時はまだ、お父さんの意向で、電気技師を目指し、大学進学を考えていたそうですが、
高校3年生の夏の選抜大会決勝の明治高校戦で、信じられないような負け方をしてしまったことから、
野球でやり残した
と、感じるようになったそうで、プロへの道を考え始めたといいます。
そんな中、阪神タイガースの名スカウト・佐川直行さんに熱心に口説かれ、王貞治さんの気持ちは、阪神に入ることに傾いていったのだそうです。
高校3年生の春の選抜大会で史上4人目となる2試合連続本塁打を放ち、プロのスカウトから注目されるも、この時もまだ、お父さんの意向で、技師になるべく大学進学するつもりでいたという、王貞治(おう さだはる)さんですが、夏の選抜 …
高校3年生の時に巨人(読売ジャイアンツ)に入団
実は、王貞治さんが大学進学を宣言したことで、巨人をはじめとする他のプロ野球球団のスカウトたちは、一旦は手を引いていたそうですが、
王貞治さんが大学進学をしないと知った巨人(読売ジャイアンツ)が、再び、王貞治さんの獲得に名乗りを上げます。
すると、阪神と巨人のスカウトが王貞治さん争奪戦を繰り広げ、そこに他球団も加わって、一時は騒然となるのですが、最終的には、子供の頃からファンだったという巨人に入団が決定したのでした。
当初は、父親の要望通り、エンジニアになるべく大学に進学する予定も、3年生の夏の選抜大会決勝でありえない負け方をしてしまったことから、「野球でやり残した」と感じるようになり、プロ野球選手になることを考え始めたという、王貞治 …
1958年10月、巨人の入団記者会見より。
19歳の時にデビューから26打席無安打もプロ初安打は決勝本塁打
そんな王貞治さんは、巨人(読売ジャイアンツ)入団1年目の1959年には、キャンプ2週目で、水原茂監督から、投手失格を言い渡されてしまうも、
投打両方の才能を見込まれ、契約金1800万円、月給12万円(年俸144万円)と、当時、高卒の新人としては破格の条件で巨人に入団した、王貞治(おう さだはる)さんですが、投手としては、キャンプ2週目にして、「明日から投げな …
打撃の方では、長嶋茂雄さんや川上哲治さんから高く評価され、130試合中94試合で一塁手として起用されると、
巨人(読売ジャイアンツ)に入団すると、キャンプ2週目には、水原茂監督らから、「明日からもう投げなくていい」と、投手失格を言い渡されたという、王貞治(おう さだはる)さんですが、その一方で、バッティングは高く評価されていた …
開幕から26打席無安打も、1959年4月26日、国鉄スワローズとの6回戦で、決勝2ランホームランを放ち、これがプロ初安打となったのでした。
既にスター選手だった長嶋茂雄さん、コーチの川上哲治さん、二軍監督の千葉茂さんらに、バッティングを高く評価され、入団一年目から130試合中94試合で一塁手として起用された、王貞治(おう さだはる)さんは、開幕から26打席無 …
959年4月26日、国鉄スワローズとの6回戦で初安打となる決勝2ランホームランを放つ王貞治さん。
19歳の時に天覧試合で同点2ランホームランを放っていた
ただ、王貞治さんは、その後も、打率1割6分9厘、3本塁打と成績が振るわなかったのですが、1959年6月25日に開催された、プロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)では、
6番一塁に起用されると、阪神のエース・小山正明さんから、ライトスタンドへ叩き込む同点2ランホームランを放っています。
開幕から26打席無安打が続き、1959年4月26日には、国鉄スワローズの村田元一投手から決勝ホームランとなるプロ初安打を放つも、その後も成績は振るわなかったという、王貞治(おう さだはる)さんですが、プロ野球初の天覧試合 …
1959年6月25日、天覧試合で同点2ランホームランを放つ王貞治さん。
王貞治の20代の頃
21歳の時に荒川博の指導のもと合気道の「氣」を取り入れた素振り練習をしていた
そんな王貞治さんの成績は、プロ入り1年目は打率1割6分1厘7本塁打、プロ入り2年目は打率2割7分本塁打17本71打点、プロ入り3年目は打率2割5分3厘13本塁打53打点と、安定しなかったのですが、
巨人入団1年目の、1959年6月25日、後楽園球場で行われたプロ野球初の天覧試合(天皇が観戦する武道やスポーツ競技の試合)では、阪神のエース・小山正明さんから同点2ランホームランを放った、王貞治(おう さだはる)さんです …
プロ入り3年目となる1961年オフシーズンに、中学2年生の時、右打ち(右バッター)から左打ち(左バッター)に変えるよう進言してくれた荒川博さんが巨人の打撃コーチに就任すると、
投打共に才能を見込まれ、巨人に入団するも、入団して1年目のキャンプで、早くも投手失格を言い渡されると、期待されていた打撃の方も、期待通りの結果を出せずにいた、王貞治(おう さだはる)さんは、3年目のオフシーズン、中学2年 …
荒川博さんの指導のもと、肉体の鍛錬のための走り込みや、合気道の「氣」の考え方を取り入れた素振りの猛練習をするほか、荒川博さんの考案した「一本足打法」というバッティングを練習することになったのだそうです。
巨人の打撃コーチに就任した荒川博さんから、「あと2年ダメだったらトレードされるかクビになる」と言われたことから、時間が残されていないと焦り、他にすがる人もいなかったことから、荒川さんについていくことに決めたという、王貞治 …
打撃コーチ・荒川博さんの自宅に毎晩のように押しかけ、荒川さんの指導のもと、肉体の鍛錬のため走り込むほか、合気道の「氣」の考え方を取り入れたスイングなど猛練習をしていた、王貞治(おう さだはる)さんは、そんな中、荒川さん考 …
22歳の時には「一本足打法」がハマり本塁打王と打点王の二冠王となっていた
そして、1962年7月1日、大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー1試合で、急遽、荒川博コーチに命じられ、「一本足打法」で試しに打つと、
上半身と下半身のバラバラの動きを連動させるため、荒川博さんが考案した「一本足打法」を練習するも、まるで、雲をつかむような話で、当初はイメージトレーニングとしてのみ使っていたという、王貞治(おう さだはる)さんですが、その …
1962年7月1日、大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー第1試合が行われる前の監督コーチ会議で、打撃コーチの荒川博さんが、ヘッドコーチの別所毅彦さんから「王が打てないから勝てない」と責められ、「ホームランならいつでも打たせてみ …
これがハマり、タイムリーヒットや本塁打を放つ大活躍をしたことから、その後も、「一本足打法」を続けると、ホームランを量産。
1962年7月1日、大洋ホエールズ戦ダブルヘッダー第1試合では、急遽、荒川コーチに命じられた「一本足打法」がハマり、タイムリーヒットや本塁打を放つ活躍をした、王貞治(おう さだはる)さんは、その後も、「一本足打法」でホー …
1962年、22歳の時には、本塁打王と打点王を獲得し、二冠王となったのでした。
1962年7月1日、大洋ホエールズ戦で初めて「一本足打法」を試みる王貞治さん。
荒川博コーチによる、「氣」や「間合い」の概念を取り込んだ打撃指導で、見事花開いた王貞治(おう さだはる)さんですが、王さんによると、荒川コーチは、技術的なことだけではなく、ありえないことを口にしつつ、「これさえやっていれ …
王貞治の30代~40代の頃
40歳の時に現役を引退
そんな王貞治さんは、その後もホームランを量産すると、1977年9月3日(37歳)、ヤクルトスワローズ戦では、大リーグ最多記録(ハンク・アーロン選手)を抜く756号ホームランを達成するなど、数々のNPB記録を打ち立てる活躍で、長嶋茂雄さんとともに、「ON砲」として巨人のV9(9年連続日本一)に大きく貢献するのですが、
1979年~1980年頃、一塁守備時、牽制球に不安を感じるようになるほか、決して速球派ではないピッチャーのボールを凡打することが多くなったことから、1980年11月4日、40歳の時に、現役を引退したのでした。
1980年11月4日、「王貞治としてのバッティングができなくなった」ことを理由に現役引退を発表した、王貞治(おう さだはる)さんですが、同時に、助監督就任も発表されています。しかし、実は、助監督就任は本意ではなかったとい …
(それでも、王貞治さんは、この年、30本塁打をマークしています)
1962年に「一本足打法」に切り替えて以降はホームランを量産し、長嶋茂雄さんと交代で計1231試合で4番を務めるなど、長嶋さんと共に巨人の9年連続日本一に大きく貢献するほか、1977年9月3日のヤクルトスワローズ戦では、 …
1977年9月3日、大リーグ最多記録を抜く通算756号本塁打を放ち1塁に向かう王貞治さん。
MVP9回、首位打者5回、本塁打王15回、打点王13回、三冠王2回、最高出塁率12回、ベストナイン18回と、プロ野球最多の記録を保持する活躍で、巨人(読売ジャイアンツ)の9年連続日本一に大きく貢献した、王貞治(おう さだ …
「【画像】王貞治の若い頃(監督時代)から現在までの経歴を時系列まとめ!」に続く
22年間のプロ野球現役生活で、868本塁打の世界記録を樹立するほか、現役引退後は、巨人(読売ジャイアンツ)、ダイエー&ソフトバンクで指揮を執り、2006年には、「第1回WBC」で、日本代表を率いて世界一に輝くなど、監督と …