1949年に中日ドラゴンズに入団すると、わずか11年で215勝をあげる活躍をするほか、日本プロ野球で初めてフォークボールを投げたことから、「フォークの神様」と称されている、杉下茂(すぎした しげる)さん。今回は、そんな杉下さんが名球会に入っていない理由や近況などついてご紹介します。
「杉下茂の現役(プロ野球選手)時代の成績が凄すぎる!」からの続き
通算215勝にもかかわらず「名球会」には入っていない理由とは?
杉下さんは、現役時代、投手として、通算215勝という輝かしい成績を収めているにもかかわらず、「名球会」(一般社団法人日本プロ野球名球会)には入っていません。
というのも、「名球会」は、1978年、金田正一投手が中心となって設立されたものなのですが、その際、入会の条件として、
- 昭和生まれ(※現在は記録と実績で入会資格の条件を満たせば平成以降生まれも入会が可)
- 野手は通算2000本以上の安打
- 投手は通算200勝以上、または250セーブ以上を、日本プロ野球の公式戦で挙げた選手、元選手(※日米通算も可)
と、定められており、杉下さんは「大正14年生まれ」だったため、「昭和生まれ」の条件から外れていたことで、「名球会」に入れなかったのだそうです。
(これは、大正生まれである川上哲治さんの影響を排除したいという意向からだと言われています)
ちなみに、杉下さん同様、2000安打、200勝利達成していながらも、昭和以前生まれのため、「名球会」に入っていない選手は、川上哲治投手(大正9年生まれ、通算2351安打)、中尾硯志投手(大正8年生まれ、通算209勝)、野口二郎投手(大正9年生まれ、通算237勝)、ヴィクトル・スタルヒン投手(大正5年生まれ、通算303勝)、藤本英雄投手(大正7年生まれ、通算200勝)、別所毅彦投手(大正11年生まれ、通算310勝)、若林忠志投手(明治41年生まれ、通算237勝)らがいます。
90歳を回っても中日ドラゴンズの春季沖縄キャンプに毎年参加していた
そんな杉下さんは、1996年以降は、毎年、中日ドラゴンズの春季沖縄キャンプに参加し、2019年までは、90歳を超えた超高齢にもかかわらず、臨時コーチとして、ひ孫ほど年の離れた若手投手の指導を精力的に行っていたのですが、
(キャンプ地のブルペンで、立ちっぱなしで腕を組んで投手陣の投球練習を見守るのが恒例となっていました)
2020年、2021年と、2年続けて参加しておらず、ファンの間で心配する声が上がっていました。
そこで、記者が、杉下さんに、2022年は現地入りする予定があるか問うと、
去年(2020年)は飛行機の切符も手配して、行く寸前になって体調を崩しましてね。今年(2021年)も腰を痛めてダメで。本当は行きたいなあと思いますよ。
待望のタツ(立浪和義監督)の初めて(のシーズン)だし、落合(英二)が初めてドラゴンズの投手コーチになって。行きたいなあ、見たいなあという気持ちは非常に強いんですよ。だけど今の状態だと難しいと思います
と、語っており、
2020年以降は参加していません。
(コロナ禍のため、自宅に閉じこもっているという話も)
結婚は?息子は?
ところで、杉下さんのプライベートですが、杉下さんは、プライベートをほとんど明かしておらず、奥さんや家族の詳細は不明です。
ただ、息子さんが一人いらっしゃるようで、野球はやっていないそうですが、杉下さん同様、人差し指と中指が90度開くのだそうです。
さて、いかがでしたでしょうか。
杉下茂さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?
- 小学校低学年の頃から兄とキャッチボールをしていた
- 幼少期~少年時代は肺を患うも野球が大好きだった
- 父親は病弱でラジオで東京六大学野球の試合を聞きながらスコアブックをつけていた
- 小学4年生の時に父親が他界し野球の強豪校・錦華小学校に転校
- 帝京商業学校・野球部に入部するも前年まで在籍していた一ツ橋高等小学校から軟式野球大会への出場依頼があった
- 高等小学校の軟式野球大会に4番投手で出場し優勝していた
- 高等小学校大会終了後は帝京商業学校に復学
- 決勝戦で日大三中を破り初の甲子園出場が決定するも・・・
- 対戦相手だった日大三中から思わぬクレームがついていた
- 帝京商業学校が甲子園を辞退
- 大人たちの言う通りにしていただけだった
- 優勝決定後に撮影した集合写真が無資格選手の存在を証明する材料となっていた
- 仲間たちから疎まれ冷たい視線を向けられ不登校になっていた
- 中2の時には「軍事教練」で背中に10キロの石を担いで休憩なしに富士山を登らされていた
- 甲子園大会中止決定後に地区予選を優勝していた
- 甲子園大会中止は関東軍の大演習による国内部隊大動員のため
- 戦争の為1941年から1946年まで甲子園大会中止も1942年のみ戦意高揚の目的で復活していた
- 準決勝の京王商(現・専修大学附属高等学校)戦では逆転サヨナラ負けを喫していた
- 1943年には東京六大学野球も中止になっていた
- 帝京商業学校卒業後はヂーゼル自動車工業(現・いすゞ自動車)に就職
- ヂーゼル自動車工業には元野球選手が大勢在籍していた
- 戦局の悪化で19歳で徴兵検査を受けさせられ「第一乙種」となっていた
- 19歳の時に軍に召集される
- 行軍では地下足袋で1日40キロ10日近くも歩かされていた
- 新兵訓練での銃の実弾訓練では銃が重く肩が抜けたような感じがしていた
- 銃の命中率が悪く上官から殴られていた
- 配属された駐屯所は銃撃戦がなかったうえ食料も豊富で恵まれていた
- 駐屯所での一番の敵はコレラ(感染症)と生水だった
- 上海の飛行場(倉庫管理係)に移動となるも恵まれていた
- 兄が沖縄戦で米艦に突撃して戦死
- 玉音放送(天皇の肉声の放送)を聞き敗戦を知る
- 終戦後も帰るあてがなく倉庫管理を続けていた
- 呉淞で捕虜収容所に入れられるも恵まれていた
- 鬱屈とした気持ちを発散するため野球大会まで開かれていた
- 中国の捕虜収容所で野球チームを作るように命令されていた
- 投手がおらず仕方なく投手を引き受けていた
- 手榴弾の特訓が豪快なピッチングに役立っていた
- 帰国すると東京大空襲で焼け野原となった東京で奇跡的に自宅と母親は無事だった
- 母親と涙の再会を果たす
- 復員後は「いすゞ自動車硬式野球部」でノーヒットノーランを達成していた
- 友人の父親のつてで明治大学に推薦入学
- 中日のエース・西沢道夫投手と帝京商業時代のチームメイトからスカウトされるも・・・
- 中日の竹内愛一監督に直接断っていた
- 明治大学旧制専門部に進学するも野球熱が冷めていた
- 1日1000球もの投球練習をさせられていた
- 日本は敗戦後の食糧難で日に日に痩せていった
- 明治大学時代は地方遠征で炭鉱のチームと試合していた
- 帝京商業学校時代の監督・天知俊一からフォークボールの存在を聞く
- 試行錯誤の末にフォークボールを会得
- 明治大学旧制専門部卒業後は中日ドラゴンズに入団
- プロ入り2年目は春先に右肩を痛めるもその後回復し27勝していた
- 初本塁打が満塁本塁打
- 当初は「フォークボール」を「カーブ」言ってごまかしていた
- 米サンフランシスコ・シールズのキャンプで無回転フォークボールを編み出していた
- フォークボールは思い切り腕を振ると激しく変化することが分かった
- オドール監督から打撃練習でフォークを使うことを禁じられていた
- 当初フォークボールは巨人戦で1点も取られたくない終盤と川上哲治の打席でしか投げていなかった
- 捕手が受け止められないほど落差のあるフォークに川上哲治も手が出なかった
- 川上哲治の右足首にフォークが当たった際、「大きな落差で逃げられない」と言われ自信となっていた
- 味方の野手からクレームがありフォークボールをあまり投げられなかった
- 本当は直球で勝負したかった
- 調子の良い時のフォークボールは揺れながら三段階で落ちていた
- 3種類の落差のフォークボールを駆使していた
- 日本シリーズ(西鉄戦)第7戦では投球の半分以上がフォークボールだった
- フォークボールを多投したのは恩師・天知俊一を日本一にさせたかったから
- フォークボールの投げ方はチームメイトにさえ明かさなかった
- 村田兆治投手にフォークボールを伝授していた
- 中日ドラゴンズの選手たちが天地俊一に監督就任を要請していた
- 天知俊一は選手の気持ちを察してくれる監督だった
- 中日ドラゴンズの選手たちはチームのためではなく天知俊一のために優勝を目指していた
- 1年後輩の金田正一にピッチングや野球について教えていた
- 国鉄スワローズ戦で金田正一が先発の時は必ず投げていた
- 金田正一との投げ合いでノーヒットノーランを達成していた
- 金田正一とはお互い認め合い尊敬する仲だった
- 金田正一が死去した際のコメント
- プロ入り後わずか9年で通算200勝を達成していた
- 10年目のシーズン終了後33歳で兼任監督(実質的には監督専任)を要請されていた
- 西沢道夫と服部受弘は背番号を永久欠番にし引退試合をすることで辞めさせていた?
- 監督就任1年目は2位
- 監督2年目は5位に転落し監督を辞任
- 毎日大映(大毎)オリオンズで選手として現役復帰していた
- 毎日大映(大毎)オリオンズ時代は遊んでいた?
- 恩師・天知俊一の一言で阪神の一軍投手兼投手コーチに就任
- エース・小山正明を放出後、解雇寸前だったジーン・バッキーを鍛えていた
- 藤本定義監督は長期的にローテを編成し「負け試合」を作っていた
- 藤本定義監督が辞任に伴いヘッドコーチから監督に昇格
- 藤本定義監督の後任監督になるのは既定路線だった
- 野田誠三オーナーから「若手登用」「世代交代」を厳命されていた
- 審判から権藤正利投手のマウンドでの動作(ボーク)を注意するよう言われていた
- 巨人の牧野茂コーチはボーク狙いでホームスチールを仕掛けていた
- 判定が覆っても審判に説明を受けただけであっさり引き上げ選手たちを激怒させていた
- コーチやベテラン選手たちと今後の展望について語り合っていたが・・・
- 監督就任1年目のシーズン途中で監督解任を言い渡されていた
- 「スポーツニッポン」の記者からは同情のコメントも
- 古巣・中日ドラゴンズの監督に再就任するも・・・
- 2回目の中日監督時代も1年目の途中で解任される
- 監督時代の成績(中日ドラゴンズ、阪神タイガース)
- 巨人の一軍投手コーチに就任すると2連覇に貢献
- 「地獄の伊東キャンプ」でAクラス入りも長嶋茂雄の監督解任に伴い一軍投手コーチを退任
- 長嶋茂雄に投手たちと共に正座させられていた
- 西武ライオンズでの投手コーチはが一番楽な仕事だった
- プロ野球選手(現役)時代の投手成績
- 最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率などタイトル多数
- ノーヒットノーランほか記録多数
- 沢村賞、MVP、野球殿堂競技者表彰ほか表彰も多数
- 背番号
- 通算215勝にもかかわらず「名球会」には入っていない理由とは?
- 90歳を回っても中日ドラゴンズの春季沖縄キャンプに毎年参加していた
- 結婚は?息子は?
について、まとめてみました。
「フォークの神様」と称され、あの長嶋茂雄さんからも「魔球」と恐れられた杉下さん。
近年、米・エンゼルスの大谷翔平選手やロッテの佐々木朗希選手らが高速フォークを武器に活躍を見せる中、
2022年12月には、
今の投手のフォークは『本物のフォーク』じゃない。 蝶みたいに不規則に揺れ、回転せずにストンと落ちるのが本物なんだよ
いまフォークと言われているのは、みんな回転している。私からすると、あれは『本物のフォーク』じゃない。指先から抜けて、回転がかかっているでしょう。落ちるというより、沈んでいるという印象ですね
と、苦言を呈すも、
阪神の臨時コーチを務めていた時に、藤川(球児)が『フォークを教えて下さい』と言ってきたことがあるが、『これで精一杯というところまでストレートで押して、そこからフォークを考えた方がいい』と伝えた。
藤川はそれで納得してストレートを磨き、抑えの投手として大成功したが、3年後にまた『教えて下さい』と言ってきたので、握り方などを教えた。その後はいいフォークを投げていた。伸びのある本当に素晴らしいストレートがあれば、フォークは自然に覚えられる。それを覚えてほしい
とも、語っており、
まだまだ、これからも杉下さんの技術を継承していってもらいたいものです。