俳優の石坂浩二さんと当時の妻・浅丘ルリ子さんにお見合いを勧められたことがきっかけで知り合ったという陽子さんと、1982年、24歳の時に結婚した、岡田彰布(おかだ あきのぶ)さんは、陽子さんとの間に、男の子が一人誕生しています。今回は、その息子さんやお孫さんとのエピソードをご紹介します。
「岡田彰布は妻のお陰もあって選手やマスコミと良好な関係を築いていた!」からの続き
子供は息子(長男)が1人
岡田さんは、1982年3月1日の婚約会見の際、子供について、
僕は一人っ子で、両親と一緒の生活になるが、明るい家庭で友だちが喜んで来てくれるようにしたい。彼女なら大丈夫です。
と、語っているのですが、
(陽子さんも、「私も楽しく明るい家庭を作るよう頑張ります」と語っていました)
1985年7月15日には、長男の岡田陽集(おかだ ようしゅう)さんが誕生しています。
息子(長男)の陽集は少年時代から野球をやっていなかった
陽集さんは、仁川学院高等学校を卒業後、大阪大学基礎工学部に現役合格すると、卒業後の2008年には、総合商社(三菱商事だと言われています)に就職し、2023年現在、インドネシアのジャカルタに単身赴任中なのだそうですが、
意外にも、子供の頃、野球をやることはなかったといいます。
(陽集さんの出身校・仁川学院高等学校には野球部もあり、阪神の佐藤輝明選手の出身校でもあります)
というのも、その理由を、お父さんの岡田さんは、
小学校の頃、バットを持たせて振らせたことがある。1回見ただけでアカンと思った
と、明かしています。
(それ以来、勉強一筋だったそうです)
優しい父親だった
ちなみに、陽集さんが幼い頃は、(現役で忙しかった)岡田さんとはほとんど一緒に遊ぶことができなかったそうですが、岡田さんはとても優しいお父さんで、叱られたことはほとんどなかったそうです。
また、幼い頃から、岡田さんには、よく「普通にしたらええんよ!」と言われたそうで、受験の時にも、「いい点を取ろうと思うから本番で緊張する。いつも通りでええんよ」と言われたそうです。そして、合格するために「しっかり準備しろ」とよく言われたそうで、この言葉は、今も仕事の役に立っているそうです。
(新聞などで、岡田さんが、選手たちに「普通にしたらええんよ!」と言っているのを見ると、自分もよく言われたことを思い出すそうです)
そんな陽集さんは、2023年9月14日、阪神タイガースのリーグ優勝に際し、
就任1年目で優勝するなんて・・・。驚きとともに父の偉大さを再認識しました。
仕事の関係で私はインドネシアのジャカルタに駐在しており、インターネットを通じて胴上げを見させてもらいました。8月27日に妻と子供2人で東京ドームでの巨人戦を観戦し、その後、父と食事をしました。
前回優勝したときの2005年、私は大学生。最大13ゲーム差をひっくり返されて優勝を逃した08年は社会人になって東京にいました。あれから15年。悔しい思いは近くで見ていました。父の喜びは格別でしょうね。
と、コメントしています。
孫とUSJに行っていた
陽集さんには、男の子が2人誕生しているそうですが、岡田さんからは、息子(孫)のためにと、しばしば、完成したジグソーパズルが送られてくるそうで、
(岡田さんは、趣味の将棋のほか、2022年からは、ジグソーパズルやクロスワードパズルにはまっているそうです)
陽集さんは、
今、僕が気にしているのは(岡田さんの)健康面ですかね。体調が理由で辞任された星野仙一さんが阪神の監督に就任されたのは54歳。今の父は10歳ほど上ですから。
そこは母(陽子さん)がいるから大丈夫だと思うし、性格は昔に比べると丸くなったかなぁと(笑)。なによりも孫の存在が大きいですね。すごくかわいがってくれて。
昨年(2022年)、僕の息子2人をつれてユニバーサル・スタジオ・ジャパンに行ったとき(人気アトラクションの)「マリオカート」に乗るために2時間、順番待ちをしていたのもいい思い出です。
と、語っています。
さて、いかがでしたでしょうか。
岡田彰布さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?
- 本名は?愛称「どんでん」の由来は?
- 座右の銘は「道一筋」
- 実家(父親)が町工場で阪神タイガースの有力後援者だったことから幼い頃から阪神の選手と交流があった
- 幼い頃は自宅から一番遠い保育園に預けられていたが一切嫌な顔をしなかった
- 小学4年生の夏に「ホークス子供の会」に入会
- 小学5年生の時に少年野球チーム「リトルホークス」に入団し本格的に野球を始める
- 10歳の時には町内の大人の野球チームに誘われていた
- DeNAベイスターズの三浦大輔監督の父と幼少の頃から知り合いだった
- 中3の時には明星中学校で中学野球大阪府大会で優勝
- 高1の時から大阪大会決勝で先制のツーランホームランを放ち優勝に大きく貢献していた
- エスカレーター式の明星高校に進学せず北陽高校に進学した理由とは?
- 高校1年生の夏の甲子園は準々決勝(今治西高等学校戦)で敗退
- 高校2年生の春の選抜出場はチームの不祥事で辞退
- 結局、甲子園出場は1年生の時の1度きり
- 北陽高校の不祥事は暴力事件だった?
- 早稲田大学野球部のセレクションでは驚異的な打力を見せつけていた
- 早稲田大学には一般入試で合格していた
- 東京六大学リーグでは5番・サードで3冠王に輝く活躍で4年ぶりのリーグ優勝に貢献
- 日米大学野球選手権大会ではサードが原辰徳と被りほぼ未経験のショートを自ら志願していた
- 早稲田大学時代は花形選手として活躍し打点と打率は未だに破られていない
- ドラフトでは最多の6球団から1位指名を受け交渉権を獲得した阪神タイガースに入団
- 阪神でも掛布雅之とサードを競うつもりだった
- 春季キャンプではファーストの練習をさせられていた
- ヤクルトからヒルトンが入団したことでファーストから外野へコンバートされていた
- 外野にコンバートされたことに対し記者たちに不満を訴えていた
- ドン・ブレイザー監督はルーキーはいくら力があってもレギュラーにしない方針だった
- ドン・ブレイザー監督は「勝つこと」と「育成」とは別物であるとの考えを徹底していた
- 掛布雅之が負傷離脱してもスタメンでは起用されなかった
- ドン・ブレイザー監督とデーブ・ヒルトン選手への阪神ファンからの嫌がらせが激しくなっていった
- ドン・ブレイザー監督は阪神ファンからの嫌がらせに苛立ち意地でも岡田彰布をスタメン起用しなかった?
- 阪神ファンの嫌がらせがエスカレートし阪神の小津正次郎球団社長が岡田を起用するようブレイザー監督を説得していた
- ドン・ブレイザー監督は5月15日に辞任
- 打率2割9分、18本塁打、54打点の活躍で、新人王を獲得
- プロ入り2年目から正二塁手となり阪神の中心選手へと成長
- プロ4年目の1983年には右大腿二頭筋を断裂する大ケガ
- 1984年の春季キャンプでは快調ぶりをアピール
- 1985年は5番セカンドで活躍
- 巨人に2対1とリードされていた
- 巨人に1点追加され、3対1とリードを広げられるも、ランディ・バースが逆転3ランホームランを放つ
- ランディ・バース、掛布雅之に続きバックスクリーン3連発
- 21年ぶりのリーグ優勝、阪神球団初となる日本一に大きく貢献していた
- 1985年をピークに成績が下降
- 1989年にはプロ入り2度目の月間MVPを受賞するも・・・
- 1992年には深刻な打撃不振でプロ13年目にして初めて代打を送られる
- 1993年には阪神タイガースから戦力外通告を受け涙の退団会見
- オリックス仰木彬監督に誘われオリックスに移籍
- オリックス仰木彬監督は岡田彰布の豊富な技術と経験のほか野球に対する取り組み方を高く買っていた
- チームがどうすれば強くなるのか試合後はしばしば仰木彬監督と長時間語り合っていた
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- 新人王、MVP2回、ベストナインなどを受賞
- 背番号
- オリックスの仰木彬監督に誘われ二軍助監督兼打撃コーチに就任
- 阪神タイガース吉田義男監督の要請で二軍助監督兼打撃コーチとして阪神に復帰
- 二軍監督時代から選手を育てながら勝つことを意識していた
- 一軍監督になってからもほぼ全ての二軍の試合をチェックしていた
- 阪神タイガース監督就任1年目の2004年は4位
- 阪神タイガースの監督就任は前任・星野仙一監督が健康問題で退任したことによる急転直下の出来事だった
- 鉄壁のリリーフ陣「JFK」を完成させ6回で試合を終わらせていた
- 監督就任2年目の2005年は「JFK」と金本知憲、矢野輝弘、赤星憲広、今岡誠らの活躍でリーグ優勝
- 監督就任2年目の2005年は6月に首位となるも中日に激しく追い上げられていた
- 代走・中村豊が三走に続き一気にホームインしセーフと思われたがアウトの判定だった
- 判定に抗議するも止めに入った平田ヘッドコーチが退場処分になったことに激怒し、選手全員を引き上げさせていた
- 牧田俊洋球団社長の説得を受け入れ18分後に試合を再開
- 試合再開後は久保田智之投手が同点に追いつかれたうえ一打サヨナラ負けのピンチとなっていた
- 一打サヨナラ負けのピンチでは監督就任以来初めてマウンドに上がって久保田智之投手に「打たれろ!メチャクチャやったれ!!」と励ましていた
- この試合を境に独走しぶっちぎりのリーグ優勝を果たしていた
- 鳥谷敬が谷球審に「守備妨害」と告げられる
- ベンチを飛び出し猛抗議するも「暴力行為」を理由に(初の)退場処分
- 試合後も判定に納得できなかった
- 実は「守備妨害」ではなかった?
- 監督就任5年目の2008年は開幕から好調でオールスター前には早くもマジック「46」が点灯していた
- 北京オリンピックで、藤川球児、新井貴浩、矢野輝弘の主力選手3名が離脱後、歯車が狂い始める
- 新井貴浩選手は腰痛にもかかわらず北京オリンピックに全試合出場し、大会終了後に骨折が判明
- 最大13ゲーム差あった巨人に9月には同率首位に追いつかれる
- 最大13ゲーム差をつけていた巨人に逆転され優勝を逃していた
- 優勝を逃した責任を重く受け止め阪神タイガースの監督を辞任
- オリックスでは全権監督に就任するも・・・
- オリックス監督は紙切れ1枚で解任されていた
- オリックス監督退任後はデイリースポーツの野球評論家や解説者として活動
- 2022年中に2023年の阪神タイガース監督として名前が挙がっていた
- 「日刊ゲンダイ」の直接取材に対し、阪神監督就任要請があったことを認めていた
- 阪神フロントには岡田監督就任に反対する声も
- 2008年の阪神監督辞任の本当の理由はフロントとの確執だった
- 阪神内には阪急の介入を嫌う者も多く、阪急・角和夫会長押しを快く思わない者も
- 再三に渡って監督再登板が噂されながら長年実現しなかった要因
- 2度目の阪神タイガース監督に就任
- 守り勝つ野球を標榜して「レギュラー選手の守備位置を固定」し「四球で出塁率を上昇」を目指していた
- 5月は19勝5敗(勝率7割9分2厘)と圧倒的な成績だった
- 交流戦では負け越し、交流戦直後の2位DeNA3連戦では3連敗し首位を陥落していた
- オールスター前後には広島東洋カープの猛追を受けていた
- 8月には球団16年ぶりとなる10連勝、9月は負けなしの11連勝で優勝を決めていた
- 佐藤輝明がバックスクリーンへ20号2ランホームラン
- 7回には巨人・岡本和真のソロホームランで1点を失うも近本光司の出塁で1点を追加して4対1
- 8回には4対2と追い上げられ、9回には巨人・坂本勇人のソロホームランで4対3に追い上げられていた
- 岩崎優投手がヒヤヒヤながらリードを守りきり18年ぶりのリーグ優勝
- 監督時代の成績(阪神タイガース⇒オリックスバファローズ⇒阪神タイガース)
- 2回目の阪神監督就任会見の際、「優勝」という言葉を封印し「アレ」を使うと宣言していた
- 「優勝」という言葉を封印したのは2008年阪神監督時代の交流戦優勝を逃したことが始まりだった
- 「アレ」は2010年に弱小チームだったオリックス監督時代から使い始めていた
- 「アレ」は2010年オリックス監督時代から使っていた
- 取材陣のほか、母親も球団オーナーも「アレ」を使っていた
- オリックスでは「アレ」が功を奏して劇的な交流戦優勝を果たしていた
- 妻・陽子との馴れ初めは?
- 1982年の春季キャンプ中にプロポーズしていた
- 妻・陽子はマルチリンガルを活かして日本ビクターで外国文献の翻訳をしていた
- 妻・陽子は岡田彰布の発言をチェックするためスポーツ紙にくまなく目を通していた
- オリックス監督時代にはマスコミを通じて選手に苦言を呈することが選手と軋轢を生む原因となっていた
- 妻・陽子は岡田彰布のアレやコレが分かる最大の理解者の一人
- 妻・陽子は食事面のケアのほか関西のマスコミとの良好な関係にも一役買っていた
- 子供は息子(長男)が1人
- 息子(長男)の陽集は少年時代から野球をやっていなかった
- 優しい父親だった
- 孫とUSJに行っていた
について、まとめてみました。
オリックス監督時代には、シーズン途中で解任されるという屈辱を味わうも、2023年には、15年ぶりに阪神監督に返り咲き、監督就任1年目で阪神タイガースをリーグ優勝に導いた岡田さん。
岡田さんの第一次阪神監督時代(2004~2008年)、編成部長としてチームを支えた黒田正宏氏は、
オリックスの3年間はたしかに屈辱的なものだったでしょう。ただし、それが自分の野球を見つめ直す得難い経験となり、現在につながっているはずです
投手コーチを務めた中西清起氏も、
オリックス監督の解任後は野球評論家としてネット裏から選手を見て、『こうやれば勝てるのになあ』とつぶやいていた。野球への情熱を失わず、“次の機会”のことを考えていたのでしょう
と、語っており、
今後もまだまだ岡田さんからは目が離せません。
「岡田彰布は幼少期から阪神タイガースの選手と交流があった!」