現役時代には、4度の本塁打王、3度の打点王、1度の首位打者を含む、2339安打536本塁打1475打点231盗塁という、とてつもない記録を残している、山本浩二(やまもと こうじ)さんですが、2019年には、膀胱ガンと肺ガンの手術に加え、胆石除去や気管支系の手術もしていたそうで、なんと、1年に7度もの手術を受けていたといいます。
「山本浩二の子供は?息子がせんだみつおの娘と結婚していた!」からの続き
山本浩二は膀胱ガンと肺ガンの手術を同時期に受けていた
山本さんは、2019年1月、定期検診で膀胱に影が見つかり、2月に血液検査をしたところ、ガンと判明したそうで、4月上旬に手術を受けたそうです。
しかし、今度は、別の検査でステージ3の肺ガンが見つかったそうで、4月30日には肺の手術をしたそうです。
(膀胱ガンからの転移ではなかったそうです)
山本浩二は1年で7度もの手術を受けていた
そして、その後も、山本さんは、膀胱と肺の手術を1回ずつ受けたそうですが、さらには、胆石除去や気管支系の手術も受けたそうで、なんと、1年で7度もの手術を受けたのだそうです。
そんな壮絶な闘病生活で、山本さんは体重が20キロも減ったそうですが、
2020年2月7日には、巨人のキャンプの取材で仕事復帰し、
去年は自分では信じられないくらいの一年間でした。2つのがんにかかりまして、4回手術をした。おかげさんでこうして元気で、あとはリハビリぐらい。キャンプに来ることができたのは、活力になるんかな
脂肪が減ってスリムにはなったんですが、ここのところの自粛で家を出ませんから、かなり太ってきました
と、笑顔で語っています。
山本浩二はラジオ番組「徳光和夫とくモリ!歌謡サタデー」で闘病中の生活を明かしていた
そんな山本さんは、2020年、徳光和夫さんがパーソナリティーを務める、ラジオ番組「徳光和夫とくモリ!歌謡サタデー」に、電話で生出演しているのですが、ガンが見つかった時のことや闘病生活について、
自分でも信じられなかった。悔しかった
去年2月のキャンプは行っているんですが、その時に『がんでした』って報告を受けて、最初に手術したのが3月で1年中手術している感じで、けっこうショックでした。まさか自分が、ですからね。こんなに元気だったのに急にだったですから、ショックはショックでした
(1年で7度の手術に)長くて回数も多かったですから、あれだけの手術を1年でやったのは珍しいらしいですね
(入院中は)家族は毎日のように来てくれましたし、野球も病室ではラジオなりテレビなりで見ていました
早く復帰したいという気持ちはいつも持っていました
(原動力を)負けちゃおれないという気持ちですかね。同じ病室ですが家族が来たり、メリハリがあったのが良かった
などと、語っています。
(山本さんは、2024年現在、テレビ解説も務めるなど元気にされています)
さて、いかがでしたでしょうか。
山本浩二さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?
- 本名は山本浩司(やまもと こうし)
- 山本浩二以外の家族は全員被爆していた
- 小学校に入学した頃、野球好きだった父親の影響で野球をするように
- 小学校時代は野球が楽しくて夢中でボールを追いかけていた
- 父親は広島カープのファンだった
- 広島カープは球団経営が苦しく市民から寄付を募っていた
- 教育熱心だった両親には野球部に入部することを反対されていた
- 次兄・尚は両親の反対で野球部入部を断念した後、バレーボールの選手として活躍していた
- 中学の野球部では三塁手からピッチャーに転向させられていた
- 強豪・広陵高校から推薦入学の誘いを受けるも断って公立の廿日市高校を受験していた
- 高校1年生の夏の広島大会では準々決勝で敗退していた
- 高校2年生の夏の広島大会は監督の勧めで「エースのジョー」をマネして1回戦で惨敗していた
- 高校3年生の夏の広島大会1回戦はノーヒットノーラン、2回戦は3安打完封していた
- 高校3年生の時には南海ホークスの鶴岡一人監督が練習を観に来るも緊張のあまり全くいいところを見せられなかった
- 鶴岡一人監督に大学に進学した方がいいと言われ、法政大学進学を決めていた
- 法政大学のセレクションでは錚々たるメンバーが集まっていたことから少し気後れしていた
- 法政大学のセレクションでは富田勝と意気投合していた
- 法政大学は経営学部と経済学部を受験するも、合格通知は文学部英文学科になっていた
- 法政大学野球部では合宿所(エリートコース)に入れず一般部員だった
- 法政大学1年生の時は球拾いと先輩相手の打撃投手ばかりさせられていた
- 同期の田淵幸一にライバル心を燃し嫉妬もしていた
- 松永怜一監督に4番・田淵幸一の前後を打てる打者として期待されていた
- 五明公男の打球が右肘に当たって投げられなくなり、腐りかけていた
- 阪神のスカウトに注目されていることを聞いて力が湧き、富田勝や桑原秀範とともにスイングに励んだ
- 大学2年生の時、外野にコンバートされ、松永怜一監督から激しいノックの猛特訓を受けるようになっていた
- 大学2年生の秋の東京六大学野球リーグ戦ではレギュラーとしてベンチ入りしていた
- リーグデビュー戦の明治1回戦では星野仙一に完璧に抑え込まれていた
- 早稲田1回戦で八木沢荘六投手から3打数3安打1打点し法政の勝利に大きく貢献
- 大学3年生の春のリーグ戦で打順が6番に昇格
- 大学4年生になると5番に昇格し富田勝と田淵幸一と共に「法政三羽烏」と呼ばれるように
- 大学4年秋の東大1回戦では田淵幸一と2打席連続アベックアーチを放っていた
- 4番の田淵幸一が死球を受けて退場すると、5番の山本浩二も打てなくなっていた
- セ・リーグの球団であればどこでも入ろうと思っていた
- ドラフト会議では広島カープから1位指名を受け、相思相愛で広島に入団
- 弱小球団の広島カープを優勝させることを夢見ていた
- 広島カープ入団1年目の春キャンプは精神的にきつく10日ほどで発熱していた
- 入団1年目でもグラウンドでしっかり練習することができた
- デビュー戦は3打数無安打1四球でノーヒットだった
- 初ヒットは?
- プロ1年目は打撃はパッとしなかった
- 初ホームランは開幕から1ヶ月以上経った101打席目ながら2打席連続ホームランだった
- 入団1年目の1969年オフには関根潤三ヘッドコーチと広岡達朗守備コーチが入団し厳しく鍛えられていた
- バッティングマシンで1時間の打ちっぱなしをさせられるもこの練習でフォームを覚えていた
- 広島入団2年目は「法政三羽烏」の田淵幸一と富田勝が球宴に出場する中、自分だけ出場できず悔しい思いをしていた
- 入団2年目の1970年は野球漬けの日々を送っていた
- 先輩の山内一弘のバッティング指導は当初は理解できなかった
- 1970年オフには米アリゾナ州の教育リーグに参加
- 山本浩二は広島入団3年目、4年目も大きく飛躍することはできなかった
- 山本浩二は入団4年目の1972年中日戦では9打席連続安打のセ・リーグ記録を樹立し、日本記録まであと1つと迫っていた
- 山本浩二は日本記録の10打席連続安打は届かないもダイヤモンドグラブ賞を獲得
- 山本浩二は入団5年目の1973年に球宴初出場も守備&打撃共に活躍できなかった
- 山本浩二は入団6年目の1974年に自己ベストを更新していた
- 山本浩二はジョー・ルーツ新監督のメジャー流の教えが合っていると感じていた
- ジョー・ルーツ監督は広島カープに赤いヘルメットを持ち込んでいた
- ジョー・ルーツ監督はボールの判定に激怒して退場を言い渡されるも・・・
- ジョー・ルーツ監督はフロントのグラウンド介入を最大の屈辱と感じ、広島カープを辞任していた
- ジョー・ルーツ監督辞任後、野崎泰一監督代理と古葉竹識監督のもと広島カープは6連勝して2位に浮上していた
- 1975年は一時は首位に立つほか前半戦終了時には3位と大躍進していた
- 山本浩二は1975年の球宴(オールスター・ゲーム)で衣笠祥雄と共に大活躍し赤ヘル旋風を巻き起こしていた
- 山本浩二は1975年の球宴(オールスター・ゲーム)でウォーリー与那嶺要監督の恩に報いたいと思っていた
- 山本浩二は初めて経験する優勝争いのプレッシャーと広島の暑い夏に心身ともに疲れ果てていた
- 山本浩二は一体感が生まれたチーム状況に優勝を意識するようになっていた
- 山本浩二は初優勝を目前にプロ野球史上最大級の乱闘事件(広島ファン2000人暴徒化事件)に遭っていた
- 1975年10月10日には広島球団史上初のマジック3が点灯
- 1975年10月11~13日のヤクルト3連戦では3連勝しマジック1
- 山本浩二は広島球団初のリーグ優勝で衣笠祥雄と抱き合って大泣きしていた
- 山本浩二の打率は広島の最終戦の直前時点で僅か1厘差でトップだった
- 山本浩二は最終戦で代走出場のみ、井上弘昭も代打で敬遠され、1厘差のままだった
- 山本浩二は僅か9毛差で首位打者を獲得していた
- 山本浩二は優勝祝勝会の瞬間は個人タイトルなどどうでもいいと思っていた?
- 山本浩二は翌1976年は打撃主要3部門全て1975年を下回っていた
- 山本浩二が本塁打を量産できるようになった理由とは?
- 山本浩二は長池徳二のアドバイスにより投手のクセを見抜くことを意識するようになっていた
- 山本浩二は狙い球を絞り、確実に仕留める技術も養っていた
- 山本浩二は内角打ちの技術と打球が伸びる打ち方も養っていた
- 山本浩二は1978年には44本塁打で王貞治を抑え初の本塁打王を獲得していた
- 山本浩二は1979年には初の打点王を獲得する活躍で広島カープの2度目のリーグ優勝と初の日本一に大きく貢献していた
- 山本浩二は1979年の球宴(オールスター)ではサヨナラ本塁打を含む2本塁打でMVPに輝いていた
- 山本浩二は広島カープの黄金期に大きく貢献していた
- 山本浩二は西井哲夫投手に内角を攻められていた
- 山本浩二は頭部死球で慶応病院に直行するも検査の結果は異常なしだった
- 山本浩二は(当時の)セ・リーグタイ記録の7打席連続四死球を選んでいた
- 山本浩二は1980年は本塁打王と打点王の二冠に加え、得点、塁打、四球、長打率、出塁率でリーグトップの成績で広島カープの連覇に大きく貢献していた
- 山本浩二は1981年も2年連続で本塁打王と打点王の二冠王に輝いていた
- 山本浩二は1983年は4度目の本塁打王を獲得していた
- 山本浩二は持病の腰痛をかばいつつ4度目の本塁打王を獲得していた
- 山本浩二は1984年は開幕から不調で6番に降格されるも、5番の長内孝が敬遠されると、意地の3ランを放っていた
- 山本浩二は4番⇒5番⇒6番と降格したうえ3試合も休養させられ10日ほど古葉竹識監督と口をきいていなかった
- 山本浩二は悔しさをバネにして好調を取り戻し広島カープ4度目のリーグ優勝に大きく貢献していた
- 古葉竹識監督が山本浩二を3試合外したのはプライドを刺激して発奮させるためだった
- 山本浩二は1984年には通算2000本安打を達成していた(大卒では3人目(当時))
- 山本浩二は1984年オフ王貞治を抜く球界最高の推定年俸8500万円で契約更改していた
- 山本浩二は1985年には通算500本塁打を達成していた(当時NPB歴代3位)
- 山本浩二の通算536本塁打はNPB歴代4位
- 山本浩二は1986年4月は打率3割7分7厘、8本塁打、19打点を記録で月間MVPを獲得していた
- 山本浩二は1986年シーズンの終盤にはこの年いっぱいで引退することを決意していた
- 山本浩二は引退年(1986年)の日本シリーズ第1戦では西武・東尾修に3打席封じられていた
- 山本浩二は引退年(1986年)の日本シリーズ第1戦で西武・東尾修に3打席封じられるも4打席目は自信があった
- 山本浩二は引退(1986年)年の日本シリーズ第1戦で西武・東尾修から起死回生の同点ホームランを打っていた
- 山本浩二が引退年(1986年)の日本シリーズ第1戦で西武・東尾修から打った本塁打は18年間の集大成だった
- 山本浩二の同点本塁打をきっかけに広島カープは3連勝し一気に日本一に王手をかけていた
- 山本浩二は引退年(1986年)の日本シリーズ第5戦目は同点の9回に先頭で出塁するも…
- 山本浩二の引退年(1986年)の日本シリーズ第5戦はサヨナラ負けしていた
- 山本浩二の引退年(1986年)の日本シリーズ第8戦は2点先制するも同点に追いつかれていた
- 山本浩二は引退年(1986年)の日本シリーズでは第4戦から体中が痛くてたまらない状態だった
- 山本浩二は引退年(1986年)の日本シリーズでは逆転で日本一を逃すも、表彰式終了後にサプライズで胴上げされていた
- 山本浩二はサプライズの胴上げをされ涙が止まらなかった
- 山本浩二は引退会見で目を真っ赤にしていた
- 山本浩二は西武ライオンズの根本陸夫にDH兼清原和博の教育係として誘われていた
- 山本浩二のプロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- 山本浩二はホームラン王4回、首位打者1回、打点王3回、最多出塁数3回とタイトル多数
- 山本浩二は通算500本塁打・200盗塁、通算外野手刺殺4637、通算外野手補殺154ほか記録多数
- 山本浩二は野球殿堂、ベストナイン10回、ダイヤモンドクラブ賞10回、ほか表彰も多数
- 山本浩二の推定年俸推移
- 山本浩二の背番号
- 山本浩二は現役引退後は解説者として活動していた
- 山本浩二は広島から選手兼任監督の就任要請を受けるも断っていた
- 山本浩二は監督就任後、巨人の元監督・藤田元司にアドバイスを求めていた
- 山本浩二は監督就任後、ヘッドコーチに元同僚の大下剛史を招聘していた
- 山本浩二は監督就任1年目の秋季キャンプでは選手たちに猛練習させていた
- 山本浩二は監督就任1年目の開幕戦(阪神戦)で継投に失敗し痛恨の逆転負けを喫していた
- 山本浩二の監督就任1年目の1989年は開幕ダッシュに成功するも2位に終わっていた
- 山本浩二の監督就任1年目の1989年は好成績も巨人が強過ぎた
- 山本浩二の広島監督2年目(1990年)は2位も優勝した巨人に22ゲーム差をつけられていた
- 山本浩二の広島監督2年目(1990年)は佐々岡真司や野村謙二郎が躍動も高沢秀昭と新外国人が期待外れだった
- 山本浩二の広島監督就任3年目(1991年)は最大7.5ゲームをひっくり返し9月で首位に立っていた
- 山本浩二は監督就任3年目(1991年)に初のリーグ優勝を果たしていた
- 山本浩二は監督就任3年目(1991年)広島市民球場3万2000人の観衆に見守られ胴上げされていた
- 山本浩二は監督就任3年目(1991年)津田恒実をわずか9球で交代させていた
- 山本浩二は監督就任3年目(1991年)津田恒実に「二軍に落として欲しい」と言われていた
- 津田恒美投手は1990年シーズン終了後から頭痛などの体調不良を訴えていた
- 津田恒実は脳に悪性の大きな腫瘍が見つかっていた
- 広島球団は周囲の動揺を避けるため津田恒実の病気を「水頭症」と発表していた
- 山本浩二はなんとか津田恒美投手の病気を治せないものかと占い師や祈祷師にまですがっていた
- 広島ナインは断トツ最下位の阪神に負けた翌日に決起集会を開いていた
- 山本浩二は津田恒美の重病でチームが一つになり優勝していた
- 山本浩二は監督就任1,2年目は2位、3年目は優勝も、4年目は4位、5年目は最下位で辞任していた
- 山本浩二の監督就任5年目(1993年)は打線は野村謙二郎、正田耕三、前田智徳、江藤智と揃いつつあるも投手陣が壊滅状態だった
- 山本浩二は松田耕平オーナーに慰留されるも成績不振の責任を取って辞任していた
- 山本浩二の第2期監督時代は一度もAクラスになることなく辞任していた
- 山本浩二の監督時代の成績
- 山本浩二はドラフト4位で金本知憲選手を獲得するとファームでじっくり鍛えていた
- 金本知憲は山本浩二が監督を辞任した翌年から頭角を現し、2000年には史上7人目のトリプルスリーを達成するなど球界を代表する選手になっていた
- 山本浩二は金本知憲を2001~2002年の2年間、全試合4番でフル出場させていた
- 金本知憲は山本浩二が広島監督在任中にFA権を行使して阪神に移籍していた
- 山本浩二は金本知憲が抜けた後、新井貴浩を4番で使い続けていた
- 山本浩二の広島監督最終年(2005年)広島は最下位に終わるも新井貴浩はホームラン王に輝いていた
- 山本浩二は東京六大学時代からの親友・星野仙一にチームの主軸・金本知憲を奪われていた
- 金本知憲は阪神・星野仙一監督の熱心な誘いに押され、半ば脅される形で阪神に移籍していた
- 山本浩二は北京五輪野球日本代表チームで星野仙一監督のもと守備・走塁コーチを務めていた
- 山本浩二の星野仙一への弔事
- 山本浩二は2012年10月に野球日本代表(侍ジャパン)監督に就任していた
- 山本浩二は侍ジャパン監督(2012)でキューバとの親善試合は2戦2勝していた
- 山本浩二は侍ジャパン監督(2012)で「第3回WBC」の代表メンバーを暫定の33名から正式の28名に絞るのが辛かった
- 第3回WBCのスケジュール
- 山本浩二はWBC第1ラウンドは2勝1敗で2位通過していた
- 山本浩二はWBC第2ラウンドは3戦全勝で1位通過していた
- 山本浩二はWBC第2ラウンド第1戦のチャイニーズ・タイペイ戦で、敗色濃厚な中、奇跡の逆転勝利を収めていた
- WBC第2ラウンド第1戦のチャイニーズ・タイペイ戦2対3のビハインドで迎えた9回2死で盗塁を成功した鳥谷敬のコメント
- 「山本浩二はWBCでは準決勝のプエルトリコ戦に敗退しベスト4に終わっていた」
- 山本浩二のWBC準決勝プエルトリコ戦後のコメント
- 山本浩二の妻・鏡子との馴れ初めは?
- 山本浩二は新婚時代ほぼ毎日、妻・鏡子にピンポン球大のスポンジを投げてもらいバットスイングしていた
- 山本浩二の妻・鏡子は交通事故に巻き込まれ55針縫う大ケガを負っていた
- 山本浩二は父の経営する会社が倒産するも妻・鏡子のやり繰りで乗り越えることができていた
- 山本浩二は妻・鏡子の提案でスランプから脱出することができていた
- 山本浩二の子供は息子が3人で三男はゴルフのティーチングプロの山本崇文
- 山本浩二の息子(三男)崇文はせんだみつおの長女でタレントのせんだるかと結婚していた
- 山本浩二はせんだみつおと初対面もすぐ打ち解けていた
- 山本浩二は膀胱ガンと肺ガンの手術を同時期に受けていた
- 山本浩二は1年で7度もの手術を受けていた
- 山本浩二はラジオ番組「徳光和夫とくモリ!歌謡サタデー」で闘病中の生活を明かしていた
について、まとめてみました。
控えめな山本さんは、あまり多くを語らないことから、野球ファン以外の知名度はそれほど高くはありませんが、2000安打500本塁打200盗塁を達成しているのは、NPB史上、山本さん以外には、張本勲さんと衣笠祥雄さんだけで、あの王貞治さんも長嶋茂雄さんも落合博満さんも達成できていません。是非、この機会に山本さんの素晴らしさを多くの人に知ってもらいたいものです。
ガン闘病から復帰した山本浩二さん。