1960年、映画「男対男」で俳優デビューすると、1961年には、主役に抜擢された「大学の若大将」でブレイクし、以降、数多くの「若大将」シリーズに出演するほか、歌手としても、5枚目のシングル「君といつまでも」が大ヒットするなど、俳優としても歌手としても大成功を収めた、加山雄三(かやま ゆうぞう)さん。

今回は、そんな加山雄三さんの、若い頃から現在までの活躍や経歴を、デビューから時系列でまとめてみました。

加山雄三

「加山雄三の生い立ちは?芸能人の両親のもと何不自由なく育っていた!」からの続き

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加山雄三が20代の時には「大学の若大将」でブレイクするほか「君といつまでも」が大ヒット

22歳の時に「男対男」で映画デビュー

加山雄三さんは、1960年、22歳の時に、「男対男」で映画デビューしています。

加山雄三
「男対男」より。(左から)三船敏郎さん、加山雄三さん、池部良さん。

23歳の時に映画「大学の若大将」でブレイク

そして、翌年の1961年、23歳の時には、いきなり、映画「大学の若大将」で主演に抜擢されると、この作品は、

  • 1961年(24歳)「大学の若大将」
    「大学の若大将」
    「大学の若大将」より。
  • 1962年(25歳)「銀座の若大将」
  • 1962年(25歳)「日本一の若大将」
  • 1963年(26歳)「ハワイの若大将」
  • 1965年(28歳)「海の若大将」
  • 1965年(28歳)「エレキの若大将」
    「エレキの若大将」
    「エレキの若大将」より。加山雄三さん(左)と寺内タケシさん(右)。
  • 1966年(29歳)「アルプスの若大将」
  • 1967年(30歳)「レッツゴー!若大将」
  • 1967年(30歳)「南太平洋の若大将」
  • 1967年(30歳)「ゴー!ゴー!若大将」
  • 1968年(31歳)「リオの若大将」
  • 1969年(32歳)「フレッシュマン若大将」
  • 1969年(32歳)「ニュージーランドの若大将」
    「ニュージーランドの若大将」
    「ニュージーランドの若大将」より。加山雄三さんと酒井和歌子さん。
  • 1970年(33歳)「ブラボー!若大将」
  • 1970年(33歳)「俺の空だぜ!若大将」
  • 1971年(34歳)「若大将対青大将」
  • 1981年(44歳)「帰ってきた若大将」

と、シリーズ化される大ヒットを記録し、加山雄三さんも、一躍、ブレイクを果たしたのでした。

24歳の時にバンド「ザ・ランチャーズ」を結成するもほどなくして自然消滅していた

そんな加山雄三さんは、1961年、24歳の時には、「東宝」の俳優仲間である、二瓶正也さん、津田彰さん、佐竹弘行さん、三木敏彦さん、速水洸さんの6名で、バンド「ザ・ランチャーズ」を結成すると、ボーカル、ギター、作曲を担当し、夜はバンド練習と多忙な毎日を送っていたそうですが、

やがて、メンバーそれぞれの本業である俳優業が忙しくなり、自然消滅してしまったそうです。

(バンド「ザ・ランチャーズ」を結成したのは、「東宝」創立30周年の祝賀パーテイーのため、プロデューサーの藤本真澄さんからの命令だったそうです)

27歳の時に「第二期ザ・ランチャーズ」(加山雄三とランチャーズ)を再結成

ただ、加山雄三さんは、1964年、27歳の時には、母方の従兄弟でまだ中学生だった喜多嶋修さんとその兄の喜多嶋瑛さん、喜多嶋瑛さんの友人の大矢茂さんと4名で、「第二期ザ・ランチャーズ」(加山雄三とランチャーズ)を再結成しています。

「第二期ザ・ランチャーズ」
「第二期ザ・ランチャーズ」(加山雄三とランチャーズ)

実は、加山雄三さんは、1963年頃、自身がMCを務めるラジオ番組で、「ベンチャーズ」の曲や、自身のオリジナルのエレキ・サウンドを数多く紹介しているのですが、

喜多嶋修さん(ベンチャーズのファン)が、たまたま、このラジオ番組を聞いていて、加山雄三さん宅を訪問したことがきっかけで、一緒にギターを弾くようになり、「第二期ザ・ランチャーズ」結成へとつながったのだそうです。

27歳の時にはオリジナル曲「ブラック・サンドビーチ」をベンチャーズがカバーし世界のエレキ・インストマニアの間で有名になっていた

そんな中、1965年の正月(27歳)には、「ベンチャーズ」が初来日し、同年7月には2度目の来日をしているのですが、「加山雄三とランチャーズ」は、この2度目の来日の際、「ベンチャーズ」と共演を果たしています。

そして、その際、1週間前に完成したばかりのオリジナル曲「ブラック・サンドビーチ」を披露しているのですが、この曲を「ベンチャーズ」が大変気に入り、自分達の演奏でシングルをリリースしたことから、

「加山雄三とランチャーズ」の「ブラック・サンドビーチ」は、またたく間に、世界のエレキ・インストマニアの間で知られることとなったのでした。

28歳の時には「君といつまでも」が大ヒット

また、加山雄三さんは、俳優業とエレキバンド「ザ・ランチャーズ」の活動のかたわら、1961年には、「夜の太陽」でソロ歌手としてもデビューしているのですが、

1965年、28歳の時には、映画「エレキの若大将」の主題歌として発売された、5枚目のシングル「君といつまでも」(1965年12月)(加山雄三さん作曲)が350万枚を超える大ヒットを記録し、歌手としても、たちまち、ブレイクを果たしたのでした。

加山雄三
「君といつまでも」

ちなみに、加山雄三さんは、「君といつまでも」の大ヒットで、ソロとしての活動が忙しくなったのか、その後、「ザ・ランチャーズ」としては活動しておらず、1967年には、「第二期ザ・ランチャーズ」のメンバーだった喜多嶋修さんが、加山雄三さん抜きで「第三期ザ・ランチャーズ」を編成しています。

25歳と28歳の時には「椿三十郎」「赤ひげ」など黒澤明監督作品にも出演

そんな加山雄三さんは、「若大将シリーズ」以外にも、1962年には「椿三十郎」、1965年には「赤ひげ」などの黒澤明監督作品にも出演しています。

「赤ひげ」
「赤ひげ」より。

加山雄三が30代の時には経営していたリゾートホテルが23億円の借金を抱えて倒産し、一時逃避行していた

33歳の時には経営していたリゾートホテルが23億円の借金を抱えて倒産していた

しかし、加山雄三さんは、1970年、33歳の時には、経営していたリゾートホテル「パシフィックホテル茅ヶ崎」が23億円もの借金を抱えて倒産。

さらに、絶大な人気を誇った「若大将シリーズ」も、1971年にはついに終了してしまい、活動の場をテレビドラマにシフトしつつ、ナイトクラブやキャバレー回りをしながら、借金を返済することになったのでした。

(また、同時期には、お母さんの小桜葉子さんが52歳という若さで子宮ガンで他界されています)

「パシフィックホテル茅ヶ崎」
パシフィックホテル茅ヶ崎。

33歳の時には一時的にアメリカに逃避するため作詞家の岩谷時子に無茶な依頼をしていた

そんな中、加山雄三さんは、一時的にアメリカに逃避するため、作詞家の岩谷時子さんに、2週間で15曲ものレコーディングをしたいと無茶振りしたそうですが、

岩谷時子さんは、ノイローゼ気味になりながらも、見事、この難題を成し遂げてくれたといいます。

加山雄三と岩谷時子
加山雄三さんと岩谷時子さん。

ただ、アメリカに逃避行した加山雄三さんは、マスコミから猛バッシングを受けています。

39歳の時にはテレビドラマ「ぼくの妹に」シリーズが高視聴率を記録

それでも、加山雄三さんは、1976年、39歳の時、テレビドラマ「ぼくの妹に」シリーズで主演を務めると、このドラマは平均視聴率21.6%、最高視聴率28%という高視聴率を記録するほか、

「ぼくの妹に」の同名タイトルの挿入歌「ぼくの妹に」(加山雄三さん作曲)が15万枚を売り上げるヒットを記録しています。


「ぼくの妹に」より。加山雄三さんと中田喜子さん。

加山雄三が40代の時には「帰ってきた若大将」で再ブレイクするほかヤマザキナビスコのCMで理想の父親と高感度がアップしていた

44歳の時には「帰ってきた若大将」で再ブレイク

また、1970年代後半には、東京の名画座映画館で、深夜映画として「若大将シリーズ」がリバイバル上映されると、加山雄三さんが全盛期だった1960年代には、まだ子どもだった大学生たちの間で話題となり、一大ブームが巻き起こったそうで、

1981年、44歳の時には、再び「若大将シリーズ」が企画され、映画「帰ってきた若大将」で主演を務めると、再ブレイクし、見事、10年で借金を完済することができたのだそうです。

帰ってきた若大将
「帰ってきた若大将」より。(左から)加山雄三さん、田中邦衛さん、坂口良子さん。

40代の時にはヤマザキナビスコのCMで理想の父親と高感度がアップしていた

そして、1980年代には、「ヤマザキナビスコ」(現・ヤマザキビスケット)のクラッカー、「プレミアム」のCMに家族全員で出演すると、

このCMでの和やかな家族だんらんに、加山雄三さんの好感度は「理想の家族」「理想の父親」とうなぎのぼりとなり、1986年~1988年(49歳~51歳)には、「NHK紅白歌合戦」の白組の司会を3年連続で務めるなど、以降、安定した人気を誇ったのでした。

加山雄三
「ヤマザキナビスコ」のCMに出演する加山雄三さん。

加山雄三が70代の時にはスキー場の閉鎖で数十億円の借金を抱えるも完済していた

74歳の時にスキー場の閉鎖で数十億円の借金を抱えていることが報じられていた

そんな加山雄三さんは、1991年、54歳の時には、新潟県南魚沼郡湯沢町に総工費100億円といわれる「加山キャプテンコーストスキー場」をオープンしているのですが・・・

2011年、74歳の時には、経営悪化により数十億円もの借金を抱えて閉鎖に追い込まれ、巨額の借金返済のため、愛船「光進丸」を売却したと報じられます。

ただ、実際には、愛船「光進丸」は売却しておらず、テレビ番組「若大将のゆうゆう散歩」やパチンコ「CR加山雄三」などの収入で借金を完済したといいます。

加山雄三
「若大将のゆうゆう散歩」より。

77歳の時に妻・松本めぐみとの卒婚が報じられていた

また、加山雄三さんは、2014年、77歳の時には、妻の松本めぐみさんと卒婚(離婚と違い、夫婦の形を維持しながらも、お互いが自由に自分の人生を生きること)していることが報じられています。

(加山雄三さんは、妻の松本めぐみさんとは1970年に結婚していました)

79歳の時にアメリカ人のゴーストライターがいたことが報じられていた

そんな中、加山雄三さんは、2016年、79歳の時には、「週刊文春」により、

  • アメリカ人のゴーストライターがいたこと
  • そのゴーストライターから、1960年代に発表された加山雄三さんの曲、「ブーメラン・ベイビー」「マイ ジプシー ダンス」「恋は赤いバラ~DEDICATED」「I Simple Say」を含む計12曲の英語作詞の報酬を支払うよう、通告書が送付されたこと

が、報じられています。

(加山雄三さんはこの報道の内容を否定しています)

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加山雄三の現在(80代)

81歳の時には愛船「光進丸」が全焼

そして、2018年、81歳の時には、37年間、人生を共にしたという、愛船「光進丸」が全焼してしまい、記者会見では、憔悴しきった様子で絞り出すような声で話しています。

光進丸が炎上
炎上する光進丸。

82歳の時に脳梗塞を患っていた

そんな加山雄三さんは、2019年、82歳の時には、脳梗塞を患うも、早期発見により、10日ほどで退院し、自宅に戻ることができたといいます。

83歳の時には小脳出血が判明し芸能活動を自粛していた

そして、2020年、83歳の時には、妻の松本めぐみさんと共に自立型ケアハウスに引っ越ししたことが報じられているのですが、

同年8月29日には、自宅で嘔吐し、病院に緊急搬送されるほか、9月2日には、軽度の小脳出血を起こし、芸能活動を自粛していたといいます。

85歳の時にはコンサート活動から引退していた

そんな中、加山雄三さんは、2022年6月、85歳の時には、(脳梗塞と小脳出血を経験したことから)コンサート活動から引退することを発表すると、

この年、

  • 8月に「24時間テレビ愛は地球を救う」で谷村新司さんたちと「サライ」を歌唱
  • 9月に東京国際フォーラムホールAで「加山雄三ラストショー永遠の若大将」を開催
  • 10月に「朝霞JAM」に出演
  • 12月にクルーズ船「飛鳥2」で船上ライヴ

などの後、大晦日の「NHK紅白歌合戦」でのステージを最後に、コンサート活動から引退したのでした。

ちなみに、加山雄三さんは、

歌えなくなってやめるのではなく、まだ歌えるうちにやめたい。最後までいつも通り歌う。それが一番なんだ

と、語っています。

加山雄三と谷村新司
2022年8月、「24時間テレビ愛は地球を救う」で谷村新司さんと「サライ」を歌唱する加山雄三さん。

お読みいただきありがとうございました


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