若い頃から、歌舞伎の女方として、その妖艶な美しさで三島由紀夫さんほか数多くの著名人を魅了すると、その後は、歌舞伎の枠にとらわれず、シェイクスピア劇、新派劇、映画、海外アーティストとのコラボレーションなど、積極的に展開してきた、坂東玉三郎(ばんどう たまさぶろう)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょう。今回は、そんな坂東さんのプライベートをご紹介します。
「坂東玉三郎の出演舞台ドラマ映画・演出舞台・監督映画を画像で!」からの続き
結婚は?
坂東さんはこれまで一度も結婚したことがなく、現在も独身です。
坂東さんは、「世襲で伝統を継ぐことの多い歌舞伎界で、梨園の出身ではないことで、逆境を感じたことがあるか」という質問に対し、
いろいろな先輩方に引き上げていただいたので、逆境ってあまり感じたことがないんです。血縁って何なんでしょうか。血縁があれば、父から子どもに、そのまんまが渡るんでしょうか。
血縁だけが家族のような気がしないんですね、僕の中では。長いこと一緒に仕事をしていて理解し合えている人も、隠しごとのない友達も、家族だと思っています。ただ、実父、実母は、自分に心を注いでくれましたから、やっぱりかけがえのない家族です
と、家族について語っているほか、
それは自分が自然に生きてきたのと同じように、自然の流れの中から生まれてくるものだと思いましたので、自分から招いてもできないものだと初めから理解していました
とも、語っており、
家族を作り、子供に後を継がせたいという気持ちにはならなかったとのことで、芸一筋の人生だったようです。
ちなみに、18代目中村勘三郎さんの姉・波乃久里子(なみの くりこ)さんが、トーク番組「徹子の部屋」に出演した際には、坂東さんと「お互い60歳を過ぎても独身だったら結婚しましょう」と約束したことがあると語っています(笑)
病気(ウツ)だった
ところで、坂東さんは、売れっ子だった20代前半の頃、多忙を極めたせいで、心身のバランスを崩したことがあったそうで、
2年半、1日も休まなかったんです。軽い心身症状態になりました。考えてみると、16歳の時にもウツの状態が出ているんです。そして24歳、38歳、41歳の時に出ました。
徐々にウツの深さは浅くなってくるんですけど、長くなった。旅行するとか他の仕事をするとか、違う環境に行くことが重要だと分かってきました。それと休養ですね。肉体的な問題より、精神的に張り詰めた状態をずっとは続けられない
と、長い時は、10ヶ月も不調が続いたそうです。
それでも、坂東さんは、舞台を辞めたいとは一度も思ったことがないそうで、
冗談だと思わないでもらいたいんだけど・・・何も他の仕事ができなかったし、(歌舞伎が)好きだったということだと思います
と、語っています。
(今までで一番長く休みをとったのは90日だったそうですが、そのうちの30日間は次の稽古に向けた準備期間だったそうなので、実質は60日間だそうです)
人間国宝
そんな坂東さんは、2012年、重要無形文化財「歌舞伎女方」保持者の各個認定(人間国宝)を受けているのですが、
南座で取材会を開くと、立女方として重要無形文化財にと打診された際の気持ちについて、
自分にふさわしいものではないと思いました。が、後輩のために受けてほしいと言っていただき、後進の指導と歌舞伎の将来のためには、お引き受けせざるを得ない(と、思った)
と、謙虚に語りつつ、
私は姫が似合わない性格、体つきで、役柄的に姫がたいへん苦手と言われた役者です。それを制覇しなければと勉強してまいりました。これからは、老け役としても納得していただける役者となれるよう修行していきたい
(役の大小や年齢にかかわらず)自分が十分に納得できる役づくりならどんどんやりたい
と、さらなる意欲を見せています。
さて、いかがでしたでしょうか。
坂東玉三郎さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 幼少期は芸者に囲まれて育つ
- 1歳半の時に小児麻痺を患う
- 幼少期から踊ることが好きだった
- 幼稚園を1日で辞めたのは男女に分けられていたから?
- 幼稚園を1日で辞めたのは一人で行くのが嫌だったから?
- 幼稚園を1日で辞めたのはどうしても好きになれなかったから?
- 幼稚園を1日で辞めたのは約束と違うから?
- 小学校は「義務教育という法律上のことだから」と説明され納得して行っていた
- 7歳で初舞台
- 初舞台が「歌舞伎座」や「新橋演舞場」ではなく「東横ホール」だった理由とは?
- 師匠(後の養父)守田勘弥の歌舞伎界でのポジションは低かった
- 師匠(後の養父)の14代目守田勘弥が若い頃は青年歌舞伎で二枚目役者として活躍していた
- 師匠(後の養父)の14代目守田勘弥は中村歌右衛門も絶賛の芸達者な役者だった
- 師匠(後の養父)14代目守田勘弥は「仮名手本忠臣蔵」で1週間で7役も演じていた
- 文字
- 子役として舞台に次々と出演
- 14代目守田勘弥の芸養子となる
- 芸養子となってから6年間は稽古づくめの日々だった
- 実父と養父2人の父親は「自分の感情の根源」
- 家系図
- 17歳の時「桜姫東文章」の白菊丸役で三島由紀夫を魅了していた
- 三島由紀夫と堂本正樹に絶賛される
- 三島由紀夫はもともとは中村芝翫(後の6代目中村歌右衛門)を贔屓にしていた
- 三島由紀夫は澁澤龍彦にも「桜姫東文章」を観るよう熱心に勧めていた
- 澁澤龍彦も坂東玉三郎の美しさに魅了されていた
- 端役にして主演の中村雀右衛門よりも強烈な印象を残していた
- 坂東玉三郎の白菊丸は三島由紀夫の長年の疑問を解決していた!
- 三島由紀夫は自身の「桜姫東文章」が失敗した理由を長年分からなかった
- 三島由紀夫は坂東玉三郎を見て初めて自身の「桜姫東文章」が失敗した原因に気づかされていた
- 演劇評論家の堂本正樹も白菊丸の登場シーンを高く評価していた
- 三島由紀夫は白菊丸を演じた役者が(まだ無名の)坂東玉三郎と知らなかった
- 坂東玉三郎は隣の席に座っているのが三島由紀夫と知っていた
- 坂東玉三郎と三島由紀夫の出会いはドラマティックだった
- 「桜姫東文章」の「白菊丸」以外は三島由紀夫の印象に残っていなかった「桜姫東文章」の「白菊丸」はごく一部の著名人にだけ強い印象を残していた
- 一般的には無名の存在だった
- 「曾我綉侠御所染」での愛妾・時鳥役で注目を集める
- 「曾我綉侠御所染」で可憐な娘役から非業の女方に転換
- 松竹は坂東玉三郎の売出しに消極的だった
- 国立劇場は左遷された人の吹き溜まりだった加賀山直三は有能も煙たがられていた
- 伊藤信夫は国立劇場でスター役者を育てる作戦を立てるも歌舞伎役者の中からスターを育てることは困難だった
- 国立劇場で役者を売り出すには様々な問題があった
- 国立劇場は「劇場」と名のつく「役所」だった
- 計画は国立劇場ではなく伊藤信夫個人によって立てられていた
- 伊藤信夫に白羽の矢を立てられる
- 伊藤信夫に勝手に国立劇場のスターとして売り出される計画をされる
- 売り出される計画が伊藤信夫によって実行される
- 加賀山直三は守田勘弥が「百合の方」を受けるわけがないと思っていた
- 伊藤信夫は加賀山直三をうまく誘導していた
- 14代目守田勘弥は「百合の方」役を快諾するも・・・
- 14代目守田勘弥は坂東玉三郎の「時鳥」役抜擢を怪しんでいた
- 伊藤信夫が坂東玉三郎を売り出すための計画を14代目守田勘弥に打ち明ける
- 14代目守田勘弥が坂東玉三郎の「時鳥」役へのオファーを引き受ける
- 伊藤信夫が14代目守田勘弥との坂東玉三郎売出しの密約に成功
- 養父の14代目守田勘弥は坂東玉三郎が大役「時鳥」役を務められるか心配でならなかった
- 伊藤信夫は坂東玉三郎を14代目守田勘弥との共演で注目させようとしていた
- 伊藤信夫は14代目守田勘弥に息を合わすことだけに集中するよう伝えていた
- 「曾我綉侠御所染」の「時鳥」役がたちまち評判に
- 養父の14代目守田勘弥は涙を流して喜んでいた
- 片岡孝夫(後の15代目片岡仁左衛門)も坂東玉三郎の「時鳥」を観て感心していた
- 「曾我綉侠御所染」以降はヒットがなかった三島由紀夫作・演出の「椿説弓張月」の白縫姫役で人気を博す
- 三島由紀夫はもともとは中村歌右衛門のために歌舞伎の脚本を書いていた
- 三島由紀夫に贔屓にされる
- 「椿説弓張月」の白縫姫役への起用はやむを得ずだった
- 三島由紀夫は「椿説弓張月」の公演後も落胆していた
- 三島由紀夫は坂東玉三郎の白縫姫役に期待していたが・・・
- 三島由紀夫は坂東玉三郎演じる白縫姫役に不満を抱いていた
- 三島由紀夫は公には坂東玉三郎に賛辞を送っていた
- 三島由紀夫から戯曲集「サド侯爵夫人」の限定版をプレゼントされていた
- 戯曲集「サド侯爵夫人」限定版は現在高値で取引されている
- 三島由紀夫は坂東玉三郎の女方を高く評価していた
- 松竹からも本格的に売り出されることに
- 市川海老蔵との「海老玉コンビ」として売り出される
- 市川海老蔵との「海老玊コンビ」で人気を博す
- 主役と脇役を交互に演じていた
- 養父・守田勘弥が坂東玉三郎を守るためブレイクを抑制していた
- 「ゴールデン・アロー賞演劇賞」「芸術選奨文部大臣新人賞」を受賞
- それでも「玉三郎ブーム」が巻き起こっていた
- 片岡孝夫(現15代目片岡仁左衛門)との「孝・玉」コンビで大ブレイク
- 女方としては背が高く苦労していたところ自身より背が高く二枚目の片岡孝夫とのコンビで解決
- 片岡孝夫はなかなか役が回ってこなかった
- 14代目守田勘弥の猛プッシュで「海老玊」から「孝・玉」に移行されていた
- 14代目守田勘弥は片岡孝夫を我が子のように可愛がっていた
- 篠山紀信の写真でさらなる大ブレイクとなっていた
- 写真家・篠山紀信との出会い
- 篠山紀信は三島由紀夫から坂東玉三郎を撮るよう勧められていた
- 篠山紀信と写真集を作ろうと盛り上がる
- 養父の守田勘弥に激怒され篠山紀信は出入禁止になっていた
- 篠山紀信の写真を見て養父の守田勘弥は心を動かされていた
- 養父の守田勘弥は写真集出版で歌舞伎界の反発を食らうことを心配していた
- シェイクスピア劇「マクベス」のマクベス夫人役でトップスターに
- 養父の守田勘弥が他界後は歌舞伎以外で活動の場を求めていた
- マクベス夫人役は平幹二朗のアイディアだった
- 泉鏡花の「天守物語」が爆発的な大ヒット「天守物語」はライフワーク
- 海外からも注目される
- ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダの舞台「ナスターシャ」で2役アンジェイ・ワイダの「ナスターシャ」は坂東玉三郎のために作られた芝居だった
- アンジェイ・ワイダが坂東玉三郎を絶賛
- 世界的チェロ奏者ヨーヨー・マとコラボレーション
- ミハイル・バリシニコフとバレエのコラボレーション
- 出演作品(歌舞伎)
- 出演作品(テレビドラマ)
- 出演作品(映画)
- 出演作品(近代劇)
- 演出作品(舞台)
- 監督作品(映画)
- 受賞・受章歴
- 結婚は?
- 病気(ウツ)だった
- 人間国宝
について、まとめてみました。
世襲制が重んじられる歌舞伎の世界において、梨園出身ではないとの理由で、類まれなる才能を持ちながらも、当初はなかなか世に出してもらえず、人気が出た後も、決して浮かれず、芸を極めるために一心に修業に励んできた坂東さん。
既に70歳を回る高齢ですが、まだまだ、唯一無二の活躍を期待したいものです。
「坂東玉三郎の生い立ちは?幼少期から踊ることが好きだった!」