現役時代は、持ち前の頭脳と洞察力に加え、地道な努力を重ねて、巨人のV9に大きく貢献すると、西武ライオンズ監督時代には、9年間で、リーグ優勝8回、日本シリーズ3連覇を2度達成するなど、監督としても素晴らしい成績を残した、森祇晶(もり まさあき)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょうか。今回は、そんな森さんの現在と子ども達についてご紹介します。
「森祇晶と谷繁元信の確執の原因は?リードが気に入らなかった?」からの続き
現在はハワイに移住
森さんは、横浜退団後の2003年に、アメリカ合衆国の永住権を取得してハワイに移住して以来、ずっと、ハワイで静かに暮らしているそうですが、
そもそも、森さんがハワイに移住したのは、プロ野球界での人間関係に疲れ、プロ野球関係を一切断ち切って、静かな余生を送りたかったからだそうで、
森さんは、
- 西武監督時代、自分の前ではいい顔をするくせに、球団フロントには自分の悪口を言って、自分を引きずり降ろそうとするコーチの存在に悩んでいた
- 「巨人の監督になるように尽力する」と言っていた連中が渡辺恒雄オーナーが長嶋茂雄さん支持を表明すると、自分を裏切って長嶋支持に回り、挙句の果てに自分が悪者にされた
- 横浜監督時代、「すべて貴方に任せる」と言っていたフロントが、まだチームの骨格も固まっていないうちから、露骨に現場介入し、挙句の果てには次期監督探しに奔走していた
と、明かしています。
野球人として屈辱的な出来事が2つあった
また、森さんには、野球人として屈辱を味わわされた出来事が2つあったそうで、一つは、1992年、西武監督時代、ヤクルトを敗り、6度目の日本一を獲得したにもかかわらず、スポーツ紙の1面は、貴花田(貴乃花光司)さんと女優の宮沢りえさんの婚約発表で、西武の日本一は裏1面だったこと。
もう一つは、1994年、巨人との日本シリーズ第6戦の試合前、東京ドームの電光掲示板に「西武・森監督辞任」という読売新聞社のニュースが流れたことだったそうで、
特に、敵地でのバックスクリーンに監督辞任ニュースが流れたことには、「信じられん。そこまでやるか」と、古巣・巨人の仕打ちに対し、怒りに震えたといいます。
(この時、森さんは西武球団に辞任の意思は伝えるも、まだ公表していなかったため、西武球団が、宿敵にもかかわず、巨人(読売新聞)にこの話を漏らしたと考えられています)
3度の結婚と2度の離婚
さておき、そんな森さんのプライベートですが、結婚を3度、離婚を2度しており、ハワイへの永住を決めたのは、3人目の奥さんとの生活を、他人の目を気にせずに送りたいとの思いもあったようです。
娘(長女)の真由美は1963年の日本シリーズ中スタンドでボールが当たり意識不明になっていた
ちなみに、森さんには、子供は、少なくとも2人(娘1人と息子1人)誕生しており、娘(長女)の真由美さんは、まだ3歳だった1963年10月30日、西鉄ライオンズとの日本シリーズ第3戦を、母親(森さんの当時の妻・淑子さん)と、おじいさんの中村勇さんの3人で、後楽園球場のネット裏で観戦していたそうですが、
6回、西鉄・ウイルソン選手が打った打球がネット裏へのファウルとなると、この打球を拾ったファンがグラウンドへ返そうと投げたところ、グラウンドには届かず、運悪く、真由美さんの側頭部を直撃してしまったといいます。
そこで、真由美さんは、急いで球場医務室へ運ばれたそうですが、しばらく意識が戻らなかったそうで、試合終了後、このことを知った森さんが慌てて駆けつけ、必死に介抱すると、ようやく、真由美さんの意識は戻ったそうで、大事には至らなかったそうです。
息子(長男)の久弥は生後100日で他界
また、森さんは、同じく、1963年、長男の久弥ちゃんが誕生しているのですが、風邪をこじらせ、生後100日で他界してしまったそうで、森さんは、ひどく落胆したそうですが、このつらい出来事から、
俺は麦みたいなもの。踏まれても踏まれても起き上がってみせる
と、(1963年は打率1割9分8厘だったのが)翌1964年は打率2割7分、1965年は打率2割7分7厘、(1966年は打率2割4分2厘と低迷するも)1967年は打率2割7分8厘と、野球に没頭して、正捕手の座を強固なものにしたのだそうです。
さて、いかがでしたでしょうか。
森祇晶さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 現役時代は「皆殺しの森」と呼ばれていた
- 幼少期は裕福な家庭で育つも・・・
- 太平洋戦争の影響で父親は財産をすべて失っていた
- 小学4年生頃から野球を始める
- 高3の時に全国高校野球選抜大会(夏の甲子園)に出場するも敗退
- 高校時代の後輩・鵜飼信雄のコメント
- 東京大学や立教大学に進学を希望するも家庭の事情で断念していた
- 家計を助けるためにプロ野球(巨人)入りしていた
- プロ1年目の出場はわずか1試合のみだった
- エース・別所毅彦投手に気に入られてピッチング練習の相手をさせられていた
- ブルペン捕手をするかたわらメモをつけ続けリードを研究していた
- 入団5年目の1959年に正捕手に抜擢されると巨人のリーグ優勝に貢献
- 一試合5盗塁刺を記録
- 水原茂監督の後任の川上哲治監督からも守りの要として信頼されていた
- ドジャースとの合同キャンプで緻密な野球を身につけていた
- ドジャースとの合同キャンプ中は川上監督の部屋で毎日食事しながら教えを受けていた
- 1961年の巨人のリーグ優勝&日本一に貢献
- 南海との日本シリーズ中には川上哲治監督に雨で水浸しになった多摩川練習場で打撃練習をさせられていた
- 川上哲治監督に食って掛かると頭を下げられ、以来一切注文をつけられなかった
- 打撃でもここぞの時に打っていた
- 川上哲治監督をして「森はV9の陰のMVP」と言わしめていた
- 福本豊にも盗塁をほとんど許さなかった
- 華やかな長嶋茂雄の引退セレモニーの陰でひっそりと現役を引退していた
- 現役中には24人もの新人捕手が入団していた
- 捕逸(パスボール)は実働20年間でわずか42個という鉄壁の守備だった
- プロ野球選手(現役)時代の成績
- 野球殿堂競技者表彰、ベストナインほか受賞多数
- オールスターゲーム出場11回
- 背番号
- ヤクルト広岡達朗監督の招聘で一軍バッテリー兼作戦コーチに就任
- 広岡達朗は森祇晶の好意に感謝していた
- ヤクルトでは広岡達朗監督の期待に応えていた
- 「巨人コンプレックス」の強いヤクルトナインを洗脳するのが上手だった
- 広岡達朗監督の参謀役としてヤクルト球団史上初のリーグ優勝&日本一に貢献していた
- 森祇晶自身は選手のプライベートまで厳しく管理することに納得していなかった
- 広岡達朗監督、植村義信投手コーチとともにヤクルトを退団
- 広岡達朗監督に再び呼ばれ西武ライオンズの一軍ヘッドコーチに就任
- 西武ライオンズの2年連続日本一に貢献
- 巨人との日本シリーズでプロ2年目で新人同然の伊東勤捕手を推していた
- 大矢明彦のコメント
- 巨人との日本シリーズでエース・江川卓投手の必殺法を編み出していた
- 西武コーチ時代も広岡達朗の参謀役を忠実に実行して選手たちから反感を持たれていた
- 江夏豊が森祇晶の本音を証言
- 広岡達朗監督の人格に疑問を持ち西武を退団していた?
- 広岡達朗監督の江夏豊への対応に反発していた?
- 江夏豊のコメント
- 広岡達朗監督の後任として西武ライオンズの監督に就任
- 広岡達朗監督の後任監督は田淵幸一が噂されていた
- 石毛宏典、秋山幸二、清原和博、渡辺久信、東尾修、工藤公康、郭泰源ら野手投手ともに充実
- 監督就任1年目からリーグ優勝
- 広島カープとの日本シリーズでは1分け3連敗の後、5戦目にしてようやく1勝
- 第6戦も3対1で勝ち連勝
- 第7戦も3対1で勝ち3連勝
- 日本シリーズ史上初の第8戦は広島カープに2対0と先制されるも8回表2対3と逆転
- 西武が1点差を守り抜き2対3で3年ぶりの日本一に輝く
- 1987年は辻発彦と渡辺久信の故障や清原和博の不振で出遅れていた
- 不振の清原和博に代わり秋山幸二が4番に座ると本塁打を量産
- 1987年は3年連続リーグ優勝と2年連続日本シリーズ制覇を果たした
- 1988年はエース・東尾修が麻雀賭博で6月20日まで出場停止となるも若手選手を中心に順調に勝ち進んでいた
- 終盤には近鉄に逆転され首位の座を明け渡していた
- 工藤公康投手が登板拒否ともとれる発言をしていた(工藤公康の「舌禍事件」)
- 全選手を集めて「工藤を救ってやってくれないか」と呼びかけていた
- 工藤公康は舌禍事件のあと自ら志願して中3日で登板し完投勝利していた
- 最終戦の阪急戦では秋山幸二が決勝ホームランを放ち勝利するも近鉄のマジックは3となっていた
- 1988年は全日程を終了し優勝は近鉄の勝敗次第だった
- 1989年は正捕手・伊東勤のケガや工藤公康らの不調で開幕から苦しいスタートとなっていた
- 渡辺智男、デストラーデなどの活躍で巻き返し優勝争いに加わる
- 近鉄との直接対決で3連敗し自力優勝が消滅
- 1989年は10月5日のダイエー戦で最終回に8点を奪われる敗戦がなければ優勝していた?
- 堤義明オーナーから来季について「監督やりたいんであればどうぞ」と言い放たれていた
- 師と仰ぐ川上哲治に諭され監督続投を決意していた
- 堤義明オーナーの「監督やりたいんであればどうぞ」は西武ナインには起爆剤となっていた
- 1990年は開幕戦から5連勝する順調なスタートを切っていた
- 1990年は2位に大差をつけてリーグ優勝
- 鹿取義隆投手のコメント
- 1990年の巨人との日本シリーズは4勝0敗で圧勝していた
- 1991年は序盤は順調も6月には清原和博ら打撃陣の不振で2位に後退していた
- 1991年も最終的には2位の近鉄を突き放して2年連続リーグ優勝
- 広島との日本シリーズでは2勝3敗と王手をかけられるも2連勝で逆転日本一になっていた
- 1992年も2位の近鉄を突き放し3年連続リーグ優勝
- ヤクルトとの日本シリーズ初戦ではオレステス・デストラーデが2本塁打も・・・
- 延長12回に鹿取義隆が代打・杉浦享から日本シリーズ史上初の代打満塁サヨナラ本塁打を浴び敗戦
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第2戦は2対0で勝利
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第3戦はデストラーデと石毛宏典の連続適時二塁打で2点を先制
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第3戦は石井丈裕投が被安打5、失点1で完投勝利
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第4戦では、2回無死一二塁のピンチを切り抜けていた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第4戦では、先発・渡辺智男を3回途中で降板させて鹿取義隆にスイッチし一死一三塁のピンチを切り抜けていた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第4戦は、秋山幸二のソロホームランの1点を守り抜き1対0で勝利していた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第5戦では、6回表の時点で6対0とリードされていた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第5戦では、7回裏に6対6の同点に追いついていた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第5戦は、池山隆寛に勝ち越しのソロホームランを打たれ7対6で惜敗
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第6戦では、1対0と先制するも2対1と逆転されていた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第6戦では、2対3と逆転⇒4対3と逆転され⇒6対4と逆転していた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第6戦では、またしても7対6と逆転されていた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第6戦では、7対7の同点に追いつくも、延長10回裏、8対7で惜敗
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第7戦では、1対0と先制されていた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第7戦では、石井丈裕の打球は風に乗ってぐんぐん伸び、同点適時打となっていた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第7戦では、7回裏、石井丈裕は一死満塁のピンチを脱していた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第7戦では、8回裏に四番の清原和博をベンチに下げていた
- 野村ヤクルトとの日本シリーズ第7戦も延長戦に
- 野村ヤクルトを制し日本一
- 1992年のヤクルトとの日本シリーズ第7戦は今でも忘れられない試合
- 2年連続の日本シリーズでの野村克也監督率いるヤクルトとの対戦はやり甲斐があり楽しかった
- 1993年の野村ヤクルトとの日本シリーズは3勝4敗で敗戦
- 秋山幸二を放出し佐々木誠を獲得
- パ・リーグ史上初の5年連続リーグ優勝を達成
- 西武ライオンズの監督を辞任
- 翌年のドラフトや外国人情報をもらえず、優勝を決めた日も祝福もせずに帰ったフロントの態度に不信感を抱いていた
- 西武のフロントは観客動員数が伸びない原因を森祇晶の野球が「つまらない野球」だからだと判断していた
- 西本幸雄に苦言を呈されていた
- 大沢啓二に「森の野球はバントばかりしてつまらない」と言われていた
- 巨人との日本シリーズで東京ドームのオーロラビジョンに「森監督今季限りで辞任へ」と映し出されていた
- 清原和博は鳴り物入りで西武に入団していた
- 清原和博が打率1割台に低迷しても一軍で起用し続けていた
- 森祇晶は優勝を優先するため清原和博を二軍スタートにしたかった?
- 清原和博を一軍で起用し続けることに迷いがあった?
- 清原和博が現役引退後の2016年に覚せい剤所持で逮捕される
- 野村克也のコメント
- 広岡達朗のコメント
- 石毛宏典は森祇晶が清原和博を甘やかしているとは思っていなかった
- 清原和博を甘やかしていたのは西武のオーナー・堤義明だった
- 堤義明は清原和博を溺愛するあまり試合での起用にも口出ししていた?
- 清原和博から相談を受けていた
- 清原和博に野球を勉強するようアドバイスするも・・・
- アドバイスのあと清原和博から連絡はなく音信不通になっていた
- 真面目だった清原が「なぜ」という気持ちにしかなれなかった
- 西武の主力打者・秋山幸二を福岡ダイエーホークスとのトレードで放出していた
- ヤクルトとの日本シリーズに敗戦し、チームの大改造が必要だと考えていた
- 福岡ダイエーホークスは本拠地・九州出身のスター選手を熱望していた
- 秋山幸二の不倫スキャンダルを許すことができなかった?
- 西武のヘッド兼打撃コーチだった黒江透修は森祇晶と秋山幸二の確執はなかったと言っていたが・・・
- 悔しさや闘志を表に出さない秋山幸二に不満を抱いていた
- 現役引退後はCMにも出演
- 巨人・長嶋茂雄監督の後任監督に決まりかけていた
- 横浜ベイスターズ監督就任会見で権藤博前監督の采配を批判していた?
- 横浜ベイスターズ監督1年目は勝敗重視の緻密な野球を推し進め3位をキープ
- 横浜ベイスターズ監督2年目は最下位を独走し監督を解任される
- 弱小球団の監督としてはミスキャストだった?
- 監督時代の成績
- 横浜ベイスターズは権藤博前監督の放任野球を変えるため森祇晶に白羽の矢を立てていた
- 谷繁元信捕手の攻めのリードが気に入らなかった
- 谷繁元信と確執が生じていた
- 谷繁元信の退団による戦力の低下は否めなかった
- 現在はハワイに移住
- 野球人として屈辱的な出来事が2つあった
- 3度の結婚と2度の離婚
- 娘(長女)の真由美は1963年の日本シリーズ中スタンドでボールが当たり意識不明になっていた
- 息子(長男)の久弥は生後100日で他界
について、まとめてみました。
西武ライオンズ時代、森さんのもとでプレーしていた辻発彦さんは、
決して頭ごなしに何か言ったりはしない。当時、流行っていたテトリスやゲームボーイを森さんがやっていて。『俺もやってみたけど、面白いな。やっぱり選手の気持ちになってみなきゃわからないな』なんて言ってました。
僕は(1988年から)選手会長をやらせてもらっていたので、監督から色々と相談されましたよ。選手の中で不満が出ていないか?とか気を遣ってね。僕も『何かあったらこっちで解消しますから任せてください』って。
そういうしっかりしたチームだったんです。ここぞという時は選手同士で『性根を入れてちゃんとやろうぜ!』って自然に言い合える空気があった
と、決して、森さんが冷徹な人間だった訳では無かったことを明かしているのですが、
現役時代から、
われわれは個人事業主。故障しても誰も助けてはくれない
が、口癖だった森さんは、様々な場面で陰口を叩かれることが多かったといいます。
高校時代には頭脳明晰ながら、経済的な理由で東京大学や慶應義塾大学進学を断念し、家計を支えるためにプロ野球界に入ったという森さんなので、その後も苦労は絶えなかったことと思われますが、ハワイでは奥さんとのんびり余生を過ごしてほしいものです。
「森祇晶は幼少期は裕福な家庭で育つも戦争で財産を全て失っていた!」