1974年に現役引退後、ヤクルト、西武でのコーチを経て、1986年に、西武ライオンズの監督に就任すると、1994年に退任するまでの9年間で、リーグ優勝8回、日本一6回と、西武の黄金時代を築いた、森祇晶(もり まさあき)さん。

今回は、そんな森祇晶さんの若い頃(監督・コーチ時代)から現在までの活躍や経歴を時系列でまとめてみました。

森祇晶

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森祇晶の40代の頃

41歳の時にヤクルトスワローズの広岡達朗監督の招聘で一軍バッテリー兼作戦コーチに就任すると参謀役としてヤクルト球団史上初のリーグ優勝&日本一に貢献していた

森祇晶さんは、1974年、巨人がV10を逃したことで現役引退すると、その後、1975年から1977年まで、野球解説者や野球評論家として活動していたのですが、

1978年、41歳の時、ヤクルトスワローズの広岡達朗監督の招聘で一軍バッテリー兼作戦コーチに就任すると、

広岡達朗監督の管理野球を忠実に実行するため、グラウンドで選手たちのプレーを厳しく指導し、選手たちのプライペートも徹底的に管理するほか、緻密なデータ分析で、1978年には、ヤクルト球団史上初のリーグ優勝&日本一に大きく貢献しています。

(巨人コンプレックスの強かったヤクルトナインに「巨人なんか怖くない」という意識も持たせたそうです)

42歳の時にヤクルトを退団

しかし、翌年の1979年、42歳の時には、広岡達朗監督が途中退団したことで、森祇晶さんも植村投手コーチとともにヤクルトを退団しています。

45歳の時に広岡達朗監督から再び呼ばれ一軍ヘッドコーチとして西武のリーグ優勝&日本一に貢献していた

そんな森祇晶さんは、1980から1981年までは、野球解説者や野球評論家として活動していたのですが、1982年、45歳の時、西武ライオンズの監督となった広岡達朗さんから、再び呼ばれ、一軍ヘッドコーチに就任すると、

ヤクルト時代同様に、広岡達朗監督の片腕として、広岡イズムを徹底的に浸透させ、2年連続、西武のリーグ優勝&日本一に大きく貢献しています。

森祇晶
広岡達朗さん(左)と森祇晶さん(右)。

46歳の時に巨人との日本シリーズでエース・江川卓投手の必勝法を編み出していた

また、森祇晶さんは、1983年の巨人との日本シリーズでは、エース・江川卓投手の必勝法を編み出していたといいます。

47歳の時(西武コーチ時代3年目)に西武を退団

しかし、森祇晶さんは、西武コーチ時代3年目の1984年シーズン終了後には、西武を退団。

その理由は、広岡達朗監督の江夏豊投手への対応に反発したためだと言われています。

48歳の時に西武の監督に就任

その後、広岡達朗監督が、1985年シーズン終了後、契約を1年残し、突然、辞任したことから、森祇晶さんは、同年12月、西武の監督に就任すると、打撃陣、投手陣共に恵まれ、1986年には、監督就任1年目から、チームをリーグ優勝に導いています。

森祇晶

また、阿南準郎監督率いる広島カープとの日本シリーズでは、初戦、引き分けの後、まさかの3連敗を喫し、早くも広島に王手をかけられてしまうのですが、

5戦目、6戦目、7戦目と勝って3連勝すると、日本シリーズ史上初の第8戦では、広島カープを逆転で制し、日本一に輝いたのでした。

ちなみに、森祇晶さんは、1985年に、鳴り物入りで西武ライオンズに入団した清原和博選手を、入団当初から一軍で起用し続けるなど、甘やかしていたと、しばしば言われているのですが、

実際に甘やかしていたのは、西武のオーナー・堤義明氏だったそうで、森祇晶さんは、堤義明オーナーの厳命に従っていただけだったといいます。




森祇晶の50代の頃

50歳の時に西武を2年連続リーグ優勝&日本一に導いていた

森祇晶さんは、翌年の1987年、50歳の時にも、王貞治監督率いる読売ジャイアンツとの日本シリーズを制し、西武を2年連続リーグ優勝&日本一に導いています。

森祇晶
1987年11月1日、日本一を決め、ナインに胴上げされる森祇晶さん。

51歳の時に工藤公康の登板拒否発言を丸く収めていた

また、3連覇を目指す1988年シーズン終盤の10月には、近鉄と首位争いをする中、工藤公康投手がマスコミに対して、登板拒否とも取れる発言をしたことで、優勝を目前に控え、大きな騒動となったのですが、

森祇晶さんは、西武ナイン全員を集めて工藤投手に謝罪させ、事態の沈静化を図っていたといいます。

51歳の時に西武で3連覇(リーグ優勝&日本一)を達成

そして、森祇晶さんは、その後も、工藤投手には処分を下さず、通常通り先発で起用すると、工藤投手も見事、期待に応え、最終的には、3連覇(リーグ優勝&日本一)を達成したのでした。

森祇晶
1988年10月27日、西武が日本一になり、ナインたちに胴上げされる森祇晶さん。

52歳の時は優勝を逃し4連覇とはならなかった

森祇晶さんは、1989年、52歳の時には、正捕手・伊東勤選手のケガや工藤公康投手らの不調で開幕から苦しいスタートとなります。

それでも、7月には、渡辺智男投手、デストラーデ選手などの活躍で巻き返し、優勝争いに加わるのですが、10月に入ると、ストッパー不在の投手陣に疲れが見え始め、

最終的には、近鉄との優勝争いに負け、惜しくも、0.5ゲーム差で優勝を逃してしまい、4連覇とはなりませんでした。

52歳の時に堤義明オーナーに「監督やりたいんであればどうぞ」と冷たく言い放たれていた

森祇晶さんは、1989年、シーズン終了後、堤義明オーナーを訪ねると、堤オーナーからは、近鉄と最後まで争ったことへのねぎらいはなく、それどころか、記者会見で、

監督やりたいんであればどうぞ

と、冷たく言い放たれており、

この言葉にショックを受け、監督を辞めようかと悩んだそうですが、師と仰ぐ川上哲治さんに諭され監督続投を決意したといいます。

53歳の時に2年ぶりに西武をリーグ優勝&日本一に導いていた

そんな森祇晶さんは、1990年、53歳の時には、リリーフ陣の補強など、チームの弱点である「抑え不在」の課題を解消し、2位に大差をつけて、2年ぶりにリーグ優勝を果たすと、巨人との日本シリーズでも、4勝0敗で巨人を圧倒し、日本一となっています。

54歳の時に西武を2年連続リーグ優勝&日本一に導いていた

また、1991年も、2年連続リーグ優勝を果たすと、広島カープとの日本シリーズでは、2勝3敗と王手をかけられるも、その後、2連勝し、見事、逆転で日本一に輝いています。

55歳の時に西武を3年連続リーグ優勝&日本一に導いていた

そして、1992年(55歳)も、3年連続でリーグ優勝を果たすと、日本シリーズでは、現役時代から同じ捕手としてしのぎを削った野村克也監督率いるヤクルトスワローズとの対戦となっているのですが、ヤクルトを4勝3敗で制して3年連続で日本一に輝いています。






森祇晶
1992年、日本シリーズでヤクルトを4勝3敗で下して3年連続日本一となり、ナインの手により胴上げされる森祇晶さん。

57歳の時にパ・リーグ史上初の5年連続リーグ優勝を西武で達成していた

そんな森祇晶さんは、1993年、56歳の時にも、リーグ優勝を果たしているのですが、野村克也監督率いるヤクルトとの日本シリーズでは、惜しくも、3勝4敗で敗れてしまいます。

そこで、森祇晶さんは、チームの活性化を図るべく、オフには、なんと、主力打者だった秋山幸二選手を放出して佐々木誠選手を獲得し、1994年、57歳の時には、パ・リーグ史上初の5年連続リーグ優勝を達成しています。

ちなみに、森祇晶さんは、西武の黄金時代を清原和博選手と共に支えた強打者・秋山幸二選手を福岡ダイエーホークスとのトレードで放出したことで、秋山幸二選手との不仲が噂されたのですが、

森祇晶さんは、スキャンダルを最も嫌っていたため、秋山幸二選手の不倫スキャンダルを許すことができなかったほか、秋山幸二選手の性格的なものが気に入らなかったと言われています。

57歳で西武の監督を辞任

そんな森祇晶さんも、1994年の日本シリーズで、長嶋茂雄監督率いる巨人に2勝4敗で敗れると、同年11月1日、監督を辞任しているのですが、実は、森祇晶さんは、かねてからフロントの態度に不満&不信感を募らせていたといいます。

実際、西武球団は、西武ライオンズの観客動員が低迷していた原因を、森祇晶さんの野球がつまらないからだと判断し、西武ライオンズの黄金時代(通算9年で、リーグ優勝8回、日本一6回)を築いた森祇晶さんを、退任に追い込んでいたといいます。

また、森祇晶さんは、かねてより、自身の采配について、阪急ブレーブスの元監督・西本幸雄さんや、日本ハムの元監督・大沢啓二さんなどに苦言を呈されていたのですが、

身内である西武球団からも、(まだ辞任については公式に発表していないにもかかわらず、球団の誰かがマスコミに漏らしたのか)巨人との日本シリーズで東京ドームのオーロラビジョンに「森監督今季限りで辞任へ」と映し出されるなどの攻撃を受けており、忸怩(じくち)たる思いがあったといいます。

森祇晶の60代の頃

63歳の時に横浜ベイスターズの監督に就任

1994年、西武球団側から退任するよう追い込まれ、監督を辞任した森祇晶さんは、西武ライオンズ退団後は、解説者や評論家として活動するほか、タレントとしても活動していたのですが、

実は、1998年9月には、巨人・長嶋茂雄監督の後任に決まりかけたところで、直前で破談されていたといいます。

それでも、2000年10月、63歳の時には、横浜ベイスターズの監督に就任すると、就任会見では、権藤博前監督の采配批判ともとれる発言をし、(横浜打線の特徴である「マシンガン打線」を否定し)バントの重要性を説いています。

65歳の時に横浜ベイスターズの監督を解任されていた

そんな森祇晶さんは、監督就任1年目の2001年、権藤博前監督の選手の自主性を尊重する野球を否定し、勝敗重視の緻密な野球を推し進めようとしたのですが・・・

うまく機能せず、監督就任1年目の2001年はなんとか3位を保ったものの、2年目は最下位を独走し、シーズン途中の2002年9月25日、契約を1年残して、監督を解任されてしまったのでした。

ちなみに、2年目の最下位は、谷繁元信捕手のリードが気に入らず、谷繁元信捕手との間に確執が生じて、谷繁元信捕手がFAで移籍したことによる戦力低下が、最大の原因だと言われています。

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森祇晶の60代~80代(現在)

森祇晶さんは、横浜ベイスターズ退団後の2003年には、ハワイに移住しているのですが、2023年頃には帰国していたといいます。

ただ、解説や評論活動などは行っていないようで、2023年、87歳の時には、母校の岐阜高校を訪ね、夏の大会を控える野球部員を前に「自信を持って、思う存分戦って」と激励しています。

森祇晶
母校・岐阜高校の野球部員を激励する森祇晶さん

お読みいただきありがとうございました

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