1952年に西鉄に入団すると、1年目には新人王、2年目には本塁打王と打点王の二冠王に加えトリプルスリーを達成、3年目は本塁打王、4年目は本塁打王と首位打者の二冠王、5年目は本塁打王と打点王の二冠王、6年目は打点王、7年目は本塁打王と首位打者の二冠王と、凄まじい成績を残した、中西太(なかにし ふとし)さんですが、プライベートはどのようなものだったのでしょう。今回は、そんな中西さんの奥さんとの馴れ初めなどをご紹介します。
「中西太は仰木彬監督とのタッグで近鉄とオリックスを優勝させていた!」からの続き
妻は三原脩の長女・敏子
中西さんの奥さんは、西鉄で監督をしていた三原脩さんの長女・敏子さんなのですが、三原監督が西鉄の監督で2度目のリーグ優勝を果たした1956年に結婚したそうです。
中西さんは三原監督に導かれプロの世界に入っているのですが、中西さんは、よく、三原監督の家に行っていたそうで、
敏子さんは、馴れ初めについて、
(中西さんが)いつも兄弟(敏子さんは4男1女の末っ子)と遊んでいて、気を使わなくていい人だったので
と、語っています。
そんな中西さんと敏子さんは、現在も夫婦仲は良好のようで、夫婦2人でプロ野球をテレビ観戦するのが日課なのだそうです。
妻・敏子は高校時代には父親の三原脩に学校の勉強よりも社会学を勉強するように言われていた
ちなみに、敏子さんは、幼い頃は、学校から帰ると、お父さんの三原さんに、予習、復習をかなり厳しく言われるなど、勉学についてうるさく言われていたそうですが、高校生になると、女の子は勉強は中学までで、高校に入ったら社会学を勉強しなさいと言われたそうで、
お父さんがナイターの時は、試合が始まる前に学校を早退させられたほか、「学校は午前中でいいから帰ってきなさい」と言われて、外に連れて行っていかれたそうで、
敏子さんは、
父と母と一緒に銀座のへんに連れていかれてお食事をしたりするんです。でも食べたものをちゃんと覚えておかないといけない。
どういうものが入っていたか、何日後かに『あそこで食べたものを作りなさい』と言われるんです。いわゆる花嫁修業みたいなものでしょうね
と、レストランで出された料理を食べながら、(料理の中に入っているものが分からないと)「これ、何が入っているんですか?」と、シェフに質問し、メモを取るよう、教えられたのだそうです。
子どもは娘が3人
そんな中西さんと敏子さんの間には、女の子が3人誕生しているそうですが、情報がないことから、芸能関係者ではないようです。
ちなみに、娘さんたちの遊び友達には、歌手の小柳ルミ子さんがいたそうで、
小柳さんは、
福岡のヒーローだった中西さんは優しくて、家に行くと『(娘と)仲良くしてやってな』と声をかけてもらいました
と、語っています。
さて、いかがでしたでしょうか。
中西太さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 幼少期は野菜の行商をする母親に女手一つで育てられた
- 少年時代(12歳の時)に空襲を経験
- 防空壕にいたままだと死んでいた
- 野球(三角ベースボール)に夢中になっていた
- 少年野球チームでも強打者だった
- 中学生の時に野球部に入部するも練習は厳しかった
- 中学1年生の時から頭角を現していた
- 旧制中学が途中で生徒募集停止になって実質3年間1年生だった
- 高校入学前に(中3で)春の選抜甲子園に出場していた
- 準々決勝の福岡県立小倉高等学校戦で敗退
- 高校1年生の夏の甲子園にも中心選手として出場
- 水戸商業高校戦では「6番」に下げられるも適時打を打って6対4の勝利に貢献
- 甲子園準決勝は初出場の湘南高校にサヨナラ負け
- 高校2年生の時には三塁手から捕手に転向していた
- 高校2年生頃からますます飛ばすようになっていた
- 高校時代は舛形博監督による千本ノックなどスパルタ練習で鍛えられていた
- 舛形博監督はグラウンドを離れると優しい兄のような存在だった
- 高3の時にも夏の甲子園に出場
- 西条北高校のエース・藤田元司にはいつも苦戦していた
- 夏の甲子園初戦ではランニングホームラン
- 福島商業高校戦では体調不良も2試合連続となるランニングホームラン
- 最後の夏の甲子園は準決勝で敗退
- 高校卒業後は早稲田大学に進学する予定だった
- 出雲の招待試合に西鉄の三原脩監督が同行することに
- 西鉄の三原脩監督には早大進学費用負担と卒業後の西鉄入団を提案されていたが・・・
- 三原脩監督から高校卒業後すぐに西鉄に入団するよう勧められ入団を決意
- プロ1年目は新人王、2年目は本塁打王と打点王の2冠王とトリプルスリーを達成していた
- 土の上で裸足でバットを振っていた
- 豪快な打撃は試行錯誤の末に編み出したものだった
- 推定飛距離160メートルの大ホームランを打っていた
- プロ9年目にして左手首を痛め豪快なフルスイングができなくなっていた
- 入団11年目29歳で選手兼監督に就任
- 1963年選手兼任監督2年目には14.5ゲーム差を逆転優勝
- 若林忠志ヘッドコーチの退団で球団と共に批判が殺到していた
- 若林忠志は末期ガンに冒されていた
- 若林忠志本人は妻の意向で末期ガンを告知されていなかった
- 若林忠志は西鉄をリーグ優勝に多大なる貢献をしていた
- 2年連続2位も・・・
- 戦力を補強するも2年連続5位に終わる
- チームの成績不振の責任を取って現役引退と兼任監督辞任
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績
- タイトル多数(僅差で三冠王を逃す)
- 最多安打2回、3年連続最多長打、4年連続最高長打率ほか、記録多数
- 野球殿堂ほか表彰も多数
- 背番号
- 現役引退後は7球団で監督やコーチを歴任
- プロ入りを拒否する若松勉の素質を見抜き説得してヤクルトに入団させていた
- 若松勉にマンツーマン指導していた
- 若松勉は畳の上の素振りで足の皮もボロボロにむけていた
- 八重樫幸雄は強肩強打で期待されるも長い間くすぶっていた
- 八重樫幸雄のオープンスタンスは中西太の発案だった
- 八重樫幸雄の岩村明憲らへの指導は中西太の教えを受け継いだものだった
- ブライアントはメジャーで活躍できずチャンスを求めて中日のオファーを受けていた
- ブライアントは開幕から二軍生活を余儀なくされていた
- 中日の二軍でくすぶっていたブライアントを見出していた
- 近鉄は主砲リチャード・デービスが大麻不法所持により逮捕&解雇され苦戦中だった
- ブライアントはオーバースイングで三振を重ね涙を流すこともあった
- ブライアントは1988年は74試合ながら34本塁打
- ブライアントは1989年前半は22試合連続三振の大不振に陥っていた
- ブライアントは1989年後半は巻き返し本塁打王を獲得するなど近鉄の優勝に大きく貢献
- 岩村明憲は高卒ながらモノが違っていた
- 岩村明憲をひと目見て素質を感じていた
- 岩村明憲には技術だけでなく三原脩から受け継いだ信念も伝えていた
- 門下生(教え子)多数
- 日本ハムで初代監督に就任するも選手たちから反発されていた
- 新社長の三原脩のケチケチ経営に選手たちは不満を募らせていた
- 新社長の三原脩は大物選手たちを「全員トレード要員」と言い放っていた
- 1980年に阪神監督就任も同年辞意を表明していた
- 辞意は固かった
- 阪神の小津正次郎球団社長はすでに後任監督の人選に動いていた
- 辞意は固いと思われていたが・・・
- 話し合いは保留のまま持ち越されていた
- 会談の中で明かしたという辞意の理由とは?
- 辞意を保留していた
- 2度目の会談後に阪神タイガース監督続投が決定
- 田中隆造オーナー(阪神電鉄社長)が待ったをかけていた
- 田中隆造オーナー(阪神電鉄社長)は同郷(香川県)だった
- 阪神監督続投と引き換えに江本孟紀のトレードを要請していた?
- 打撃コーチ時代には江本孟紀と取っ組み合いのケンカをしていた
- 1981年8月26日のヤクルト戦で江本孟紀は7回まで好投していたが・・・
- 江本孟紀が限界に達しベンチにアピールするも中西太はベンチ裏に引っ込んでいた
- 江本孟紀はベンチにグラブを投げつけ「アホ」を連呼していた
- 江本孟紀は「アホ」発言が原因で引退
- 江本孟紀の「アホ」発言に対する中西太のコメント
- 阪神の監督を辞任
- 阪神退団会見では大粒の涙をこぼしていた
- 監督時代の成績(西鉄ライオンズ、日本ハムファイターズ、阪神タイガース)
- 西鉄時代の後輩・仰木彬に要請されて近鉄の打撃コーチ~ヘッドコーチに就任
- 近鉄では仰木彬とタッグを組んでリーグ優勝を果たしていた
- オリックスでも仰木彬とタッグを組み日本一になっていた
- 妻は三原脩の長女・敏子
- 妻・敏子は高校時代には父親の三原脩に学校の勉強よりも社会学を勉強するように言われていた
- 子どもは娘が3人
について、まとめてみました。
名選手が名コーチになることが決して多くはない中、現役時代には凄まじい成績を残しながら、打撃の指導でも、数々の名選手を世に送り出してきた中西さん。
まだまだ、これからも、若い世代に、中西さんの技術を継承していってもらいたいものです。