交際当初から様々なサポートをしてもらっていたという信子さんと1984年に結婚した、落合博満(おちあい ひろみつ)さんは、信子さんとの間に男の子が一人誕生しています。今回は、その息子・福嗣さんをご紹介します。
息子(長男)・福嗣は少中学時代ひどいイジメに遭い、そのケガの影響で野球を断念せざるを得なかった
落合さんと信子さんの間には、1987年8月20日、福嗣(ふくし)さんが誕生しています。
ただ、福嗣さんは、落合さんの息子ということで、ひどいイジメを受けていたそうで、小学校時代には、廊下に置いてあるロッカーに閉じ込められて、鍵までかけられたほか、
(この時は、大声で叫び、先生が気が付いて開けてもらったそうです)
中学時代(国士舘中学)は、軟式野球チーム「世田谷ウイングス」の大型内野手として活躍していたそうですが、練習中、上級生に膝をバットで殴られ、そのケガの影響で高校生の時に野球を辞めざるを得なかったそうです。
母親の信子は息子・福嗣を野球選手にしたかった
ただ、お母さんの信子さんは、福嗣さんを野球選手にするという夢が諦めきれず、福嗣さんを公園で走らせ、落合さんに見てもらったそうですが・・・
福嗣さんはとても速く走ったそうですが、落合さんは、「(ケガの影響で)膝が内側に入っている。だめだなあ」と、言ったそうで、野球選手の道を断念せざるを得なかったのだそうです。
息子・福嗣はゲーム・アニメ関係のタレントとして活動していた
そんな福嗣さんは、イジメが原因で、一時、不登校になり、死ぬことばかり考えていたといいますが、両親のサポートなどで、なんとか立ち直ると、大学に進学するほか、ロシア留学をするなど、やりたいことをなんでもチャレンジするようになったそうで、
大学卒業後は、もともと、アニメやゲームが好きで声優に興味があったため、本格的に声優の勉強をしようと、アミューズメントメディア総合学院東京校声優タレント学科で2年間学び、2015年4月、大手声優事務所の青二プロダクション・ジュニア部門のオーディションを受けると、見事、合格。同年には、地上波のアニメ作品「それが声優!」で声優デビューしています。
(青二プロダクションのジュニア部門は、新人研修生で3年後に再びオーディションを受け、合格すればプロダクションに正式所属となるそうで、福嗣さんは、2019年5月、青二プロダクションに正式に所属しています)
以降、福嗣さんは、声優として地道にキャリアを積み、2018年には、人気アニメのプリキュアシリーズ第15弾「HUGっと!プリキュア」で、プリキュアの敵「クライアス社」のチャラリート役、さらには、同名人気野球漫画原作のアニメ作品「グラゼニ」では主演に抜擢され、これが当たり役となっています。
孫は女の子が2人と男の子が1人
ちなみに、福嗣さんには、2014年1月20日に長女が、2016年6月に次女が、そして、2019年9月22日には長男が誕生しているのですが、落合さんは、特に、3人目の男の子の誕生を喜んだと言われています。
さて、いかがでしたでしょうか。
落合博満さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 幼い頃は甘えん坊な子供だった
- 小学校に入る前から新聞で丸めたボールを棒で打って遊んでいた
- 中学の時は1年生にして4番でエース
- 中学3年生の時に90メートルを超える本塁打を放ち、秋田県内の名門高校から勧誘が殺到していた
- 高校でも1年生にして4番・投手に抜擢されるも、入部3ヶ月で右肩と腰を痛め、外野手に転向していた
- 高校時代は3年生や同級生に殴られ、入部3ヶ月で練習に行かなくなっていた
- 高校野球部の縦社会に馴染めなかった
- 大会の1週間前には野球部の先輩に呼び戻され4番で大会に出場していた
- 高校時代は毎日授業をサボって1日中映画館で時間を潰していた
- 映画館の入場料300円は、姉の貯金箱から拝借したり、高校の授業料を充てていた
- 不登校中も素振りなど自主トレーニングはしていた
- 東洋大学野球部のセレクションに合格するも・・・
- 松山キャンプの練習中に左大腿部の肉離れと足首の捻挫で毎日の通院を余儀なくされていた
- 封建的な雰囲気が嫌で東洋大学野球部も入学前に退部し大学自体も半年で中退
- 東洋大学中退後は姉のアパートを飛び出してホームレスのような生活をしていた
- ボウリング場でアルバイトをするうちにプロボウラーを目指すように
- プロボウラーの受験料3000円を交通違反で失い、プロボウラーを諦めていた
- 野球への熱意が再び高まり高校時代の恩師で野球部部長の安藤晃を訪ねていた
- 東芝府中野球部のセレクションでは桁違いのバッティングで合格
- 東京芝浦電気・府中工場野球部(東芝府中)でも、いきなり4番に抜擢されていた
- 東芝府中では生まれて初めて無我夢中で野球ができた
- 東京芝浦電気の府中工場では朝8時10分から夕方5時まで仕事をしてから野球の練習をしていた
- 入社1年目と2年目に会社を辞めたくなるも、姉に怒られたり泣きつかれたりして思いとどまっていた
- 東芝府中入社3年目にはオープン戦で4打席連続本塁打を放っていた
- 東芝府中在籍5年間で通算70本塁打を記録
- 阪神タイガースにドラフト指名の可能性を伝えられていたが・・・
- 1978年ドラフト3位でロッテオリオンズに入団
- プロの球団ならどこでもいいと思っていた
- 右肩(守備)に不安があったことからどの球団からも評価はそれほど高くなかった
- ロッテ入団直後、前監督の金田正一に打撃をプロで通用しないと批判されていた
- 山内一弘監督から打撃指導を受けるも・・・
- 山内一弘監督の指導を拒否し、土肥健二、加藤秀司のバッティングを参考にしながら一人で試行錯誤していた
- ロッテ入団直後、前監督の金田正一に打撃をプロで通用しないと批判されていた
- 山内一弘監督から打撃指導を受けるも・・・
- 山内一弘監督の指導を拒否し、土肥健二、加藤秀司のバッティングを参考にしながら一人で試行錯誤していた
- 山内一弘監督の指導は入団当初は理解できなかったもののタイトルを獲った時に理解できるようになっていた
- 阪神時代の田淵幸一も山内一弘の指導が理解できなかった
- 金田正一を毛嫌いしていた?
- ロッテ入団1年目の1979年は二軍スタートで抜群の成績も一軍ではいまいちだった
- 2年目の1980年はオープン戦で守備中に得津高宏と衝突して左膝打撲と左足首捻挫を負い前期を棒に振っていた
- 2年目の1980年後期から一軍に昇格し打率2割8分3厘15本塁打の好成績
- 二軍戦でベテランの佐藤道郎投手から本塁打を放ったのがターニングポイントだった
- 入団3年目の前期シーズンにはホームラン&打点がチープトップ
- 史上最強の6番打者と称されるように
- 入団3年目の1981年には首位打者を獲得
- 入団3年目で27歳になっていた
- 入団3年目の1981年には西本幸雄監督の推薦で初の球宴(オールスター)出場
- 初球宴(オールスター)のスタメン第1打席は全身痙攣を起こしていた
- ロッテ入団4年目の1982年には史上最年少の三冠王に輝くも批判が殺到していた
- ロッテ入団5年目の1983年も首位打者に輝き3年連続首位打者を獲得
- 1984年は無冠に終わっていた
- 阪急のブーマー選手が三冠王となったことが起爆剤となっていた
- 1985年には王貞治に次ぐ史上2人目の三冠王に輝いていた
- 1986年にはNPB史上唯一となる3度目の三冠王に輝いていた
- 1986年シーズン終了後、慕っていた稲尾和久監督が解任され、ロッテ球団へ反発していた
- 球団批判を繰り返すも松井静郎球団社長と話し合いで和解したかと思われていた
- 年俸が日本人選手初の1億円を超えたことがロッテの重荷になって中日へのトレードが決定
- 移籍先は巨人が有力視されていたが交換選手が噛み合わず、交渉が難航していた
- 中日・星野仙一監督が落合博満獲得を球団に強く働きかけていた
- 中日移籍1年目の1987年は好成績も無冠に終わっていた
- 中日移籍2年目の1988年も4番打者としてリーグ優勝に貢献するも・・・
- 2年連続本塁打王や打点と本塁打の二冠王には輝くも三冠王には届かなかった
- 中日で三冠王を獲得できなかったのは日米野球でのたった一打席が原因だった
- 完璧に捉えたはずの打球がまさかの失速をしていた
- 力負けしたショックが尾を引き、自分の本来の打撃とはかけ離れたスイングをしていた
- 日本人選手で初めて年俸調停を申請していた
- 調停の結果は球団提示額の2億2000万円だった
- 1991年オフには3億円で契約更改
- 当初はFA権を行使せず残留するつもりだったが徐々に考えが変わっていった
- 誤解を防ぐため生放送のテレビ番組でFA宣言を表明していた
- FAを巡ってマスコミの報道が過熱する中、妻・信子が取材に答えていた
- FAで巨人に移籍
- プロ野球人気を回復させるため長嶋茂雄が巨人の監督に就任するも巨人はリーグ最少得点という貧打線で3位に終わっていた
- 長嶋茂雄監督は落合獲得を熱望
- 巨人へ移籍した理由とは?(落合博満本人のコメント)
- 40歳の落合を獲得した巨人は猛批判されていた
- 宮崎キャンプでは長嶋茂雄が心配するほど練習に打ち込んでいたが・・・
- 巨人キャンプの甘さに驚いていた
- 巨人入団1年目の1994年はいきなり開幕・広島戦で松井秀喜とアベックホームラン
- 6月末時点10ゲーム差で独走していた巨人が9月末には中日に首位に並ばれていた
- 極度の打撃不振にあえぎ、4番から5番に降格させられていた
- 脇腹にデッドボールを受けて肋骨を骨折し満身創痍で試合に出ていた
- 1994年10月2日のヤクルトスワローズ最終戦で巨人は3回表に斎藤雅樹投手が集中打を浴び3点のリードを許していた
- 解説の江川卓は落合の打撃に対して現実的なコメントをしていた
- 見事逆転2ラン(決勝)ホームランを放っていた
- 珍しくガッツポーズをしていた
- 巨人は129試合を終えた時点で中日と69勝60敗で同率首位だった
- 落合博満のソロホームランなどで巨人が2対0とリードしていた
- 2対2の同点に追いつかれるも落合博満のタイムリーヒットで再び逆転
- 落合博満は守備時、左足の内転筋を痛め4回からベンチに退いていた
- 巨人が4年ぶりのリーグ優勝
- 長嶋監督と抱き合い涙を浮かべていた
- 1995年には41歳4ヶ月で通算2000本安打を達成
- 会長を務める金田正一との確執から名球会入りを拒否していた?
- YouTube「落合博満 オレ流チャンネル」で名球会入りを拒否した理由を改めて言及
- 1995年はオールスターに出場しMVPも獲得していた
- 1996年は死球を受けて後半は戦線離脱するも好成績を残していた
- 1996年には通算500本塁打と通算1500打点も達成
- 急転直下で巨人を退団することに
- 巨人は清原和博を獲得して落合博満を切るつもりだった
- 清原和博は巨人の誘いに不快感を示し拒否していた
- 阪神が清原和博に猛アタックしていた
- 巨人・深谷球団代表は解雇を否定するも落合博満は怒り心頭
- 巨人への怒りが収まらず、家族旅行先でも記者たちに爆弾発言を繰り返していた
- 長嶋茂雄監督はいつもの調子だった
- 清原和博が巨人に入団
- 長嶋茂雄監督と4時間に及ぶ直接対談の末、巨人退団を決意していた
- ヤクルト・野村克也監督と日本ハム・上田利治監督の間で落合博満争奪戦が繰り広げられていた
- 日本ハムに入団することを決意
- 日本ハム入団を決めた理由とは?
- 実は条件(年俸)で日本ハムへの移籍を選んでいた?
- 日本ハム移籍1年目の春季キャンプでは充実感を語っていた
- 日本ハム移籍1年目は出だし好調も6月中旬から打率が下降
- 日本ハム移籍1年目1997年は打率2割6分2厘、3本塁打、43打点という期待外れの成績に終わっていた
- プロ野球史上2人目のセ・パ両リーグ1000本安打を達成
- オールスターゲームで始球式をした広末涼子を知らなかった
- 日本ハム移籍2年目もキャンプから若手ホープ西浦克拓との争いの末に4番を勝ち取っていたが・・・
- 日本ハム移籍2年目の後半戦は代打起用が増え、日刊スポーツに「引退」を報じられる
- 日本ハム移籍2年目の最終戦では上田利治監督に指名打者での先発出場を打診されるも固辞していた
- 引退ではなく自由契約を選び日本ハムを退団
- 結果的に1998年10月7日の日本ハム時代最後の出場試合が引退試合となっていた
- 通説である「代打で始まった野球人生、最後も代打で終わりたい」は後付け?
- 打撃ではなく守備が原因で野球が続けられないと思っていた
- プロ野球選手(現役)時代の打撃成績と年俸
- ホームラン王5回、首位打者5回、打点王5回(三冠王3回)ほかタイトル多数
- 通算510本塁打、シーズン打率3割6分以上50本塁打146打点ほかNPB記録多数
- 野球殿堂、MVP6回、ベストナイン10回ほか表彰も多数
- 背番号
- 現役引退後は解説者として活動していた
- 中日ドラゴンズの監督要請を受けたのは「3年契約」「全権委任」が決め手だった
- 妻・信子の後押しで中日ドラゴンズ監督を即決していた
- チームを変えるのに3年はかかると思っていた
- 招聘した全コーチに選手に暴力を振るった場合は即刻解雇する旨の誓約書にサインさせていた
- 中日で鉄拳指導をしていた星野仙一を反面教師にし、暴力排除を掲げていた
- 体罰をなくすことは永遠の課題と語っていた
- コーチ陣を招聘する際、森繁和に一番最初に声をかけていた
- 解説者時代、監督になったらコーチに森繁和を使うよう根本陸夫から勧められていた
- 高額オファーに森繁和は面食らっていた
- コーチの年俸も自分で決めていた
- 監督就任前に既に何人かの選手が戦力外通告を受けていたが・・・
- 「トレードも戦力外もないから1年頑張れ」と選手に約束していた
- 「10%底上げしたら必ず優勝できる」と選手たちに言っていた
- 「バント職人」の川相昌弘に直々にオファーしていた
- キャンプ初日に異例の紅白戦を行うことを宣言
- キャンプ初日の紅白戦についてマスコミからバッシングを浴びていた
- キャンプ初日の紅白戦ではピッチャーが秋のキャンプやオフに練習していた成果が現れていた
- 春季キャンプは6勤1休だった
- 春季キャンプ中、練習は朝早くから夜7時過ぎまでやっていた
- グラウンドはまるでバッティングセンターのようだった
- 春季キャンプでは門限を撤廃するほか、主力選手には白紙のメニューを渡していた
- コーチ陣の仕事は選手を指導することではなく、練習を見張ることだと考えていた
- コーチ陣には選手が一人でも残って練習していたら一緒に残らせていた
- ローテーションでの練習メニューは必ずできるようになるまでやるように言っていた
- 過酷な春季キャンプでの練習はうまくなるためには当たり前のことと考えていた
- 川崎憲次郎はヤクルトスワローズでエースの地位を確立し、破格の待遇で中日に移籍していたが・・・
- 川崎憲次郎は中日に移籍1年目のオープン戦で肩を壊し、そのまま一軍で登板できないまま3年が経過していた
- 川崎憲次郎に電話で直接、開幕投手を告げていた
- 川崎憲次郎はなぜ自分が開幕投手に選ばれたのか分からないまま引き受けていた
- 開幕投手に起用した川崎憲次郎は5失点していた
- 落胆ムードが漂う中、一人だけ笑みを浮かべ川崎憲次郎に降板を告げていた
- 川崎憲次郎はこのシーズンの一敗が中日移籍後最初で最後の成績となっていた
- 自ら川崎憲次郎に戦力外通告していた
- 川崎憲次郎を開幕投手に起用したのは全選手横一線と選手に刺激を与える為だった
- 川崎憲次郎を開幕投手に起用したのは情報漏洩を確かめる為だった
- 情報漏洩をしていたのは鈴木孝政コーチだった?
- 2005年は開幕ダッシュに成功するも主砲のタイロン・ウッズが暴力事件を起こし、退場処分と10試合出場停止処分を課されていた
- 監督就任2年目の2005年は2位に終わっていた
- 2006年は6月と7月で貯金17となり、優勝が秒読みとなっていた
- 後半戦は阪神に猛追されるも、川上憲伸、山本昌の活躍で首位の座を守っていた
- 監督就任3年目の2006年もリーグ優勝を果たしていた
- 小笠原慎之介、川上憲伸、タイロン・ウッズ、福留孝介の活躍で前半戦は首位で折り返すも・・・
- 後半戦は主力打者・福留孝介がケガで戦線離脱しシーズン中の復帰が絶望的となる
- ウエスタン・リーグ(2軍)から上がってきた堂上剛裕の活躍で再び首位に
- 最終的には巨人に振り切られ連覇を逃す
- クライマックスシリーズで全勝し、日本シリーズでも日本ハムを下し日本一に輝いていた
- 2008年は福留孝介のメジャー移籍と北京五輪による主力選手離脱で3位
- 2009年は新外国人・ブランコの活躍も主力選手退団で首位巨人と12ゲーム差の2位
- 2010年はプロ野球新記録の5試合連続完封
- 2010年は阪神、巨人と三つ巴となるも直接対決を勝ち越し、3度目のリーグ優勝
- 2010年の日本シリーズはロッテに2勝4敗1分で敗退
- 2011年は借金スタートも5月20日の逆転勝利を皮切りに白星を重ね2位に浮上
- 2011年は8月は一時は5位に転落していた
- 2011年は2連覇で4度目のリーグ優勝
- 2011年は圧倒的な投手陣で優勝していた
- 2011年シーズン途中の9月22日、突然、監督退任が発表されていた
- リーグ優勝3回、監督在任7期すべてAクラスという結果にもかかわらず事実上の解任
- 2011年の監督解任は観客動員数の悪さと財政面が原因だった?
- 監督時代の成績が凄すぎる
- 投手が中心のディフェンス重視の落合野球は見ていてつまらなかった?
- マスコミへの「塩対応」が原因だった?
- 落合博満の解任について佐藤良平球団代表は苦しい言い訳をしていた
- 「逆転優勝がありうる」タイミングで監督退任が発表された理由とは?
- 監督解任は2011年シーズン前の株主総会で薄々感づいていた
- 解任通達を受けたその日のナゴヤドームのオーロラビジョンに大きく「落合監督退任」と発表されていた
- 中日監督退任の2年後にはGMに就任していた
- 妻・信子との馴れ初めは?
- 一緒にいた男性から信子の電話番号を聞いていた
- 信子は落合が野球選手だとは知らなかった
- 落合がデートを誘うと、信子からは先に実家に来るよう言われていた
- 信子に洗濯物を持ってくるよう言われるも、洗濯を済ませてから行くと断っていた
- 信子の実家でしっかりした作法を見せていた
- 信子の母親が振る舞った金平牛蒡の小鉢を嫌いだからと食べなかった
- 信子の両親には正直なところが気に入られていた
- 信子にうるさいほど電話をかけるようになっていた
- 年俸360万円の中から曽祖父に仕送りをしていた
- 信子は結婚前から落合博満を野球で大成させるために様々なサポートをしていた
- 落合博満は酷い偏食家だった
- 信子は結婚前から落合博満の偏食をなくすために買い物に付き合わせていた
- 信子に目標を決めることを勧められていた
- 信子に毎日その日の成績を報告していた
- プロ入り3年目は体調が悪く、信子に奥歯の治療をすることを勧められていた
- 歯の治療をしたことで体調が良くなり、首位打者を獲得していた
- 結婚を意識するも、信子にはお金目当てだと思われていた
- 三冠王のインタビューで信子に激怒されていた
- 信子は落合博満が三冠王を獲れると確信していた
- ショックを受けた信子から別れを切り出されていた
- 信子には激怒され別れを告げられるも仲直りしていた
- 信子は年上であることを気にして結婚に消極的だった
- 信子は年齢を気にして6歳もサバを読んでいた
- プロポーズの言葉は?
- 結婚後も夫婦仲が良好なのはデコボコがうまく合っているから
- 息子(長男)・福嗣は少中学時代ひどいイジメに遭い、そのケガの影響で野球を断念せざるを得なかった
- 母親の信子は息子・福嗣を野球選手にしたかった
- 息子・福嗣はゲーム・アニメ関係のタレントとして活動していた
- 孫は女の子が2人と男の子が1人
について、まとめてみました。
2011年に中日の監督を退任して以来、度々、監督就任が噂されるも、実現していない落合さん。2023年には65歳の岡田彰布さんが阪神の監督として再登板し、見事、阪神を18年ぶりのリーグ優勝と38年の日本一に導くなど、年齢を感じさせない手腕を発揮しており、落合さんにもまだまだ監督就任の可能性がありそうです。是非とも、もう一度、「オレ流」采配を見てみたいものです。
「落合博満は幼少期から新聞で丸めた球を棒で打って遊んでいた!」