1966年、ドラフト4球団から1位指名を受け、阪神タイガースに入団すると、206勝158敗193セーブ2987奪三振ほか、シーズン401奪三振、オールスター9連続奪三振など輝かしい成績を残した、江夏豊(えなつ ゆたか)さん。
今回は、そんな江夏豊さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列順にご紹介します。
「江夏豊の生い立ちは?小5で左利き矯正!中1では先輩殴り返し野球部退部!」からの続き
江夏豊の10代の頃
高校時代からエースとして活躍し高校球界で有名だった
江夏豊さんは、高校は、野球では無名の大阪学院大学高等学校に進学しているのですが、1964年、高校1年生の時には、背番号1をつけて全国高等学校野球選手権大阪大会1回戦の春日丘高校戦に登板すると、9対0と完封勝利し、2回戦の淀川工科高校戦も、3対0と完封で勝利。
ただ、3回戦では、浪華商業高等学校(浪商)に2対4で負けてしまうのですが、1965年、高校2年生の夏の大阪大会では、1回戦で同志社香里高校を2対0の完封勝利で下すと、2回戦の浪商にも完投勝利。
そして、続く、3回戦の大阪府立泉尾工業高等学校戦では5対0で完封勝利、4回戦の大阪市立扇町高等学校戦でも、延長10回の末、1対0で完封勝利し、一躍、高校球界で有名になったのでした。
(準々決勝の興國商業高校戦ではサヨナラ負けを喫しています)
速球投手でありながら制球力も抜群で、4度のシーズン20勝以上、6年連続リーグ最多奪三振を記録するなど、最終的には、206勝158敗193セーブ2987奪三振という素晴らしい成績を残した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが …
強豪の報徳学院と浪華商業高等学校(浪商)のセレクションに合格するも、1年生でも(下働きばかりでなく)野球をさせてもらえる可能性のある、野球では無名の大阪学院に入った、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、1年生からエースとして …
高校3年生の夏の大阪大会の大阪府立八尾高等学校戦で10人連続三振を記録
そんな江夏豊さんは、1966年、高校3年生の夏の大阪大会も、三振の山を築いて、順調に勝ち進み、4回戦の大阪府立八尾高等学校戦でも4対0で完封して勝ち進むのですが、準決勝では桜塚高校に敗退してしまいます。
1966年、高校3年生の夏の大阪大会では、ストレート一本で次々と対戦相手を三振に打ち取り、あれよあれよと準決勝まで進出した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、準決勝ではノーマークだった大阪府立桜塚高等学校のエース・奥田 …
高校3年生の夏の大阪大会準決勝では、ノーマークだった公立の桜塚高校のエース・奥田俊輝さんの前に1対0で敗退してしまった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、それから32年後、赤瀬川隼さんの小説「捕手(キャッチャー)はまだ …
(ただ、江夏豊さん自身は、4回戦の大阪府立八尾高等学校戦では、10人連続三振を記録しています)
高校2年生の夏の大阪大会で対戦相手から次々と三振を奪った、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、3年生で迎えた夏の大阪大会でも、10人連続奪三振を含む、三振の山を築いたといいます。 「江夏豊は高1からエースで活躍し大阪の高校球 …
高校卒業後はプロ入りせずに東海大学に進学することに決めていた
すると、江夏豊さんは、高校野球の激戦区である大阪で、新興の大阪学院大学高等学校をベスト4に導いたことから、「左腕 江夏」として注目され、プロ野球チームから誘いがくるようになったそうですが、
江夏豊さんは、プロ入りではなく、一番熱心に誘ってくれた東海大学に進学することに決めていたといいます。
高校3年生の夏の大阪大会では、準決勝で桜塚高校に敗退するも、予選6試合で81奪三振2失点と圧巻のピッチングをした、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、高校野球の激戦区である大阪で新興の大阪学院をベスト4に導いた「左腕 江夏」 …
高校3年生の時に阪神タイガースにドラフト1位指名され、阪神に入団
そんな中、1966年9月5日、江夏豊さんは、第1次ドラフト会議において、阪神タイガースに1位指名されると、関西の人気球団からの指名に、大学1本だった気持ちが揺らいだそうですが、それでも、東海大学に進学するという気持ちは変わらなかったそうです。
しかし、阪神のベテランスカウトの佐川直行さんに、
おまえなんかほしくない
と、言われると、
カーッとなり、つい、「阪神に入る」と啖呵(たんか)を切って、阪神タイガースに入ることになったのだそうです。
学費を優遇してくれ、野球部の仲間も4人ほど一緒に入れてくれるという好条件に加え、エースとして活躍する自分の姿もイメージすることができたことから、東海大学に進学しようと心に決めていたという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんです …
東海大学行きを決めていたにもかかわらず、ただの球団職員という認識しかなかったスカウトマンの佐川直行さんに、「おまえなんかほしくない」と言われ、カーっとなって、つい「阪神に入る」と啖呵(たんか)を切り、阪神タイガースに入団 …
18歳の時(阪神入団1年目)は藤本定義監督にバッター転向を勧められていた
そんな江夏豊さんは、阪神タイガース入団1年目の1967年には、早くも一軍で先発として起用されるも、なかなか、安定したピッチングができないでいたそうですが、
高校3年生の夏の大阪大会では、ストレートだけで10人連続三振を含む三振の山を築いた、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、さすがに、プロではそれでは通用しなかったそうで、秋のキャンプでは、プロとパワーの違いを思い知らされた …
1966年、阪神タイガースに入団してすぐの秋のキャンプでは、シート打撃で、4年目の打者・富恵一さんに高知・安芸球場の左中間スタンドに軽々と打たれ、プロのパワーの違いを感じたという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、翌196 …
同年4月23日、中日戦で、バッターとして打席に入ると、4回2死の場面で2ランホームランを放ち、試合後、藤本定義監督から打者転向を勧められたそうで、
なかなか安定したピッチングが出来ない中、ある日、バッティングで大活躍した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、藤本定義監督から打者転向を勧められ(投手クビのピンチに立たされ)、ヤケになりかけていたといいます。 「江夏豊の初先 …
これに(投手としてのプライドを傷つけられ)カーッとした江夏豊さんは、同年4月29日の広島戦では、先発出場して、見事、10奪三振で完投勝利したそうで、登板5試合目で初勝利を飾ると、以降、6連勝し、すっかり、「バッター転向」の話は立ち消えになったのだそうです。
前年1965年のドラフト会議で、阪神が当初の予定通り、鈴木啓示さんを指名していれば、阪神に指名されることはなく、阪神入団もなかったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、いよいよ、阪神と契約を交わし、契約金をもらうと …
19歳の時に新記録となる354個目の奪三振は王貞治から奪っていた
結局、この年(入団1年目の1967年)、江夏豊さんは、高卒1年目の18歳にして、いきなり、12勝13敗、防御率2.74、225奪三振(奪三振王)という素晴らしい成績を残すと、
入団2年目の1968年も、次々と奪三振記録を塗り替え、新記録となる354個目の奪三振は、狙い通り、巨人の王貞治さんから奪ったのでした。
(結局、この年の奪三振は401まで伸ばし、この記録は2024年現在も破られていません)
デビューから5試合目の広島戦で10奪三振&完投で初勝利を飾ると、それからは面白いように勝ち星が上がって、あれよあれよと5連勝した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、その後、巨人戦でもストレート一本で勝負し、凡打の山を築いた …
高卒で阪神タイガースに入団すると、1年目から、12勝13敗、防御率2.74、225奪三振(奪三振王)という成績を残すも、まだまだ荒削りだったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、プロ2年目となる1968年には、林義 …
高卒で阪神タイガースに入団すると、1年目から、奪三振王(225奪三振)を獲得するほか、12勝13敗、防御率2.74という成績を残した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、プロ2年目となる1968年には、林義一投手コーチの …
王貞治さんを三振に打ち取り、シーズン354奪三振の新記録を達成したと思ってベンチに戻るも、捕手の辻恭彦さんから、まだタイ記録の353奪三振だと指摘された、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、どうしても、王さんから新記録のシー …
江夏豊が20代の頃
23歳の時にオールスター第1戦で9者連続奪三振を達成
そんな江夏豊さんは、1971年7月17日、23歳の時には、オールスター第1戦(阪急西宮球場)に登板すると、大会記録となる、9者連続奪三振を達成しています。
1971年7月17日、オールスター第1戦(阪急西宮球場)に登板した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、大会記録となる、9者連続奪三振を達成しているのですが、実は、その年はあまり調子が良くなく、そんな中、ファン投票で選ばれて …
9者連続奪三振を達成した江夏豊さん。
1971年7月17日、オールスター第1戦(阪急西宮球場)で、史上初の9者連続奪三振を達成した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、加藤さんがバックネット方向にファウルを打った際、キャッチャーの田淵幸一さんに「捕るな」と言った …
25歳の時に自身のサヨナラ本塁打で史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成
また、江夏豊さんは、1973年8月30日、25歳の時には、甲子園で行われた中日戦で、史上初の延長線ノーヒットノーランを達成しています。
(延長11回裏に自身のサヨナラ本塁打で勝利して達成)
1971年7月17日に行われたオールスター第1戦(阪急西宮球場)で9者連続奪三振という新記録を達成した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、1973年8月30日には、延長戦の末、なんと自身の本塁打でノーヒット・ノーランを達成 …
25歳の時に阪神球団幹部から呼び出され負けるように指示されていた
しかし、江夏豊さんは、1973年10月19日、25歳の時、阪神がマジック1になり、次の日の中日戦か明後日の巨人戦に勝てば優勝という時、
阪神の球団幹部に呼び出され、明日の中日戦は、優勝したら金がかかるからと、負けるように指示されたといいます。
江夏豊さんは、これを聞いて、怒りでカーッとなり、
こうなったら絶対勝ってやる
と、意気込んだそうですが、力みすぎて、中日に敗れてしまったのでした。
1973年8月30日の中日戦で、史上初の延長戦でのノーヒット・ノーランを達成するも、阪神が優勝に手が届く位置にいたことから、阪神の優勝のことで頭がいっぱいだったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、同年10月19日 …
25歳の時に金田正泰監督にキレていた
さらに、江夏豊さんは、「優勝したら金がかかるから負けるように」との指示を了承したという、阪神タイガースの金田正泰監督とは、もともとは、「豊」「オジキ」と呼び合う仲だったそうですが、
1973年のシーズンが始まる前から金田正泰監督の人間性にキレ、シーズン終了後の11月には、
金田(正泰)監督の下ではプレーができない
と、表明します。
1973年、マジック1が出て、今日の試合か明日の試合いずれかに勝てば優勝という時に、阪神球団から、「優勝はカネがかかるから負けろ」「金田(正泰)監督も了解している」という、耳を疑う指示を受けたという、江夏豊(えなつ ゆた …
金田正泰監督に頼まれて永平寺の修行に同行するも、当の本人の金田監督がトイレ掃除などをサボっているのを見て、不信感を覚えたという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、実は、この金田監督、なんと、二度も、選手に殴られていると …
金田正泰監督に頼まれて付き合った永平寺の修行中、金田監督がトイレ掃除などをサボっているのを見て、不信感を抱き始めたという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、今回は、二度の「金田監督殴打事件」のうち、二度目の「金田監督殴 …
28歳の時に阪神タイガースに「トレード」を通告されていた
そんな江夏豊さんは、1976年、28歳の時には、阪神タイガースに、「トレード」を通告されてしまうのですが、
1967年に阪神タイガースに入団して以来、6年連続最多奪三振王に輝くほか、数々の記録を打ち立て、阪神のエースとして活躍した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、1976年には、まさかの「トレード」を通告されます。 「江夏 …
1967年に入団して以来、6年連続最多奪三振王に輝くほか、数々の記録を打ち立て、阪神のエースとして活躍してきた江夏豊さんにとって、この通告は、簡単に受け入れられるものではなく、引退も考えたといいます。
しかし、最終的には、トレードを受け入れ、南海ホークスへ移籍したのでした。
阪神では9年間で159勝をあげるなど多大な貢献をするも、1976年には、まさかのトレードを通告された、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、なぜ、トレードされることになったのでしょうか。今回は、いくつか考えられている理由を …
28歳の時に南海ホークスに移籍したのは野村克也監督に惹かれていたからだった
こうして、1976年1月、28歳の時、南海ホークスに移籍した江夏豊さんですが、実は、1975年のシーズン終了後、なかなか、阪神球団から契約交渉の連絡がない中、週刊誌の記事で南海へのトレードを知り、引退を考えるようになっていた時、
(トレード先だと噂されていた)南海の野村克也監督に会食に誘われると、会食中、野村克也監督は、ひたすら野球の話をしていたそうで、江夏豊さんは、そんな野村克也監督の野球の話を聞くうちに、だんだん、野村克也監督に惹かれていく自分を感じていたといいます。
阪神では9年間で、最多勝2回、奪三振王6回などの活躍で159勝をあげるも、1975年のシーズン終了後には、週刊誌の記事で、南海にトレードさせられることを知ったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、引退することも考えたそ …
29歳の時に野村克也監督にリリーフ転向を打診されていた
江夏豊さんは、南海ホークス移籍1年目の1976年は、痛めていた肩と肘の影響で成績が振るわず、2年目の1977年には、野村克也監督からリリーフ転向を打診されたそうです。
1975年のシーズン終了後、いつまで経っても阪神球団から契約交渉の連絡が入らない中、週刊誌にトレード話を報道され、引退を考えるようになるも、(トレード先だと噂されていた)南海の野村克也監督から会食に誘われ、その会食中に野 …
ただ、(当時、投手は先発以外は二流とされていたことから)なかなか納得できず、野村監督との話し合いは平行線をたどっていたそうですが、
野村克也監督に、
なあ豊、野球界にいっぺん、革命を起こしてみろよ
と、言われたそうで、
江夏豊さんは、この「革命」という言葉に心を動かされ、リリーフ転向を決意したのだそうです。
南海ホークス移籍1年目の1976年、痛めていた肩と肘の影響で成績がパッとしなかった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、2年目の1977年には、野村克也監督からリリーフ転向を打診されたそうですが、なかなか納得いかず、1ヶ月ほ …
29歳の時にセーブ王(最多セーブ)のタイトルを獲得
こうして、江夏豊さんは、1977年、29歳の時、リリーフに転向すると、すぐに、パ・リーグ記録の17セーブを更新する19セーブ(4勝2敗19セーブ)でパ・リーグ最多セーブのタイトルを獲得するのですが・・・
野村克也監督から「革命を起こさないか」と、リリーフ転向を勧められ、リリーフに転向した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、当初は、周囲の理解のない中、毎日ベンチ入りするための調整方法に苦労するも、やがては自分なりの調整方法を …
第2の投手人生を与えてくれた大恩人である野村克也監督が、この年1977年限りで解任され、退団が決定してしまったことから、江夏豊さんも、野村克也監督とともに退団する決意をし、金銭トレードで広島東洋カープに移籍したのでした。
江夏豊の30代の頃(現役時代)
31歳の時に広島カープで初のリーグ優勝を経験
江夏豊さんは、1978年、30歳の時に、広島東洋カープに移籍すると、古葉竹識監督のはからいで、痛めていた肩を十分に休めることができ、また、調整がうまくいったこともあり、ボールの勢いが復活すると、この年(1978年)5勝4敗12セーブを挙げる活躍を見せます。
パ・リーグ最多セーブのタイトルを獲得し、リリーフ投手としてこれからという、1977年12月、大恩人の野村克也監督が南海を解任されたことで、これに追随する形で南海を退団し、広島カーブに金銭トレードで移籍した、江夏豊(えなつ …
そして、翌年1979年、31歳の時には、9勝5敗22セーブを挙げ、広島のリーグ優勝に大きく貢献しているのですが、これは、江夏豊さんにとって、プロ入り13年目にして初の優勝だったのでした。
1978年、移籍した広島では、古葉竹識監督が選手を大人扱いしてくれたことで、十分に肩を休めることができたほか、調整がうまくいき、ボールの勢いが復活したという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、この年、5勝4敗12セーブを挙 …
31歳の時に伝説の「21球」(9回無死満塁から脱出に成功)
その後、江夏豊さんは、1979年、日本シリーズの近鉄バファローズ戦では、9回無死満塁というピンチを、見事、切り抜け、広島を日本一に導いているのですが、
この9回に投げた球数「21球」は、「伝説の21球」として、現在も語り継がれています。
広島移籍2年目の1979年、プロ13年目にして初の優勝を経験した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、日本シリーズでは、あの伝説の「21球」で、見事、広島を日本一に導きます。今回は、この「21球」と、その直前の出来事をご紹介 …
32歳の時には日本ハムファイターズに移籍
江夏豊さんは、広島カープに移籍3年目の1980年(32歳)も、前年同様、広島のリーグ優勝&日本一に貢献するのですが、この年のシーズンオフ、日本ハムファイターズの大沢啓二監督に誘われ、日本ハムファイターズに移籍すると、
大沢啓二監督をお父さんのように慕うようになっていったといいます。
広島移籍2年目の1979年、伝説の「21球」等で、広島のリーグ優勝&日本一に大きく貢献した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、移籍3年目の1980年も、前年同様、広島のリーグ優勝&日本一に貢献するのですが、同年のシーズンオ …
35歳の時に大沢啓二監督の勇退に伴い、西武への移籍を勧められていた
江夏豊さんは、日本ハムファイターズ移籍1年目の1981年(33歳)には、いきなり日本ハムのリーグ優勝に貢献し、「優勝請負人」と称されるようになるのですが、
1983年のシーズンオフ(35歳)に大沢啓二監督が勇退し、フロント入りすると、大沢啓二監督に西武へ移籍することを勧められたそうですが、実は、西武は、江夏豊さんが一番行きたくない球団だったといいます。
1980年11月、日本ハムファイターズに移籍した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、移籍1年目の1981年から、日本ハムのリーグ優勝に貢献し、優勝請負人と称されるのですが、1983年のシーズンオフ、大沢監督が勇退すると、大 …
36歳の時に西武ライオンズに移籍するも広岡達朗監督に嫌われて二軍に落とされ、それきり一軍に呼んでもらえなかった
江夏豊さんは、1984年、36歳の時に、西武ライオンズに移籍するのですが、監督、コーチ、主力が参加する食事会で、広岡達朗監督に何気なく発した一言が、広岡達朗監督の気分を害し、二軍に落とされると、それっきり一軍には呼んでもらえなかったといいます。
日本ハムファイターズで父親のように思っていた大沢啓二監督が勇退し、フロント入りすることになったことから、自宅に挨拶しに行くと、なんと、「お前を広島から取ったのは俺だ。俺が辞めるんだから、おまえも辞めろ」「おまえの次の就職 …
36歳の時に現役を引退
江夏豊さんは、1984年、36歳の時、広岡達朗監督に、二軍に落とされたまま一軍への再登録の打診すら1度もなく、完全に一軍への復帰の見込みがないと分かると、
前年まで、5年連続最多セーブに輝くほどの活躍だったにもかかわらず、まっとうな根拠もなく、監督の好みで一軍に上がれないプロ野球に何の魅力も感じなくなり、11月12日現役引退を発表したのでした。
1984年、監督、コーチ、主力が参加する朝食会で何気なく言った言葉が、広岡達朗監督の気分を害し、いよいよペナントレースの山場という時に二軍に落とされると、それっきり一軍に呼ばれなかったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さん …
36歳の時に「たったひとりの引退式」をしてもらっていた
江夏豊さんは、現役時代、阪神タイガース、南海ホークス、広島カープ、日本ハムファイターズ、西武ライオンズと、5球団を渡り歩き、829試合登板、206勝158敗193セーブ、2987奪三振、防御率2.49という、素晴らしい成績を残したにもかかわらず、どの球団からも引退試合をしてもらえなかったのですが、
阪神タイガース、南海ホークス、広島カープ、日本ハムファイターズ、西武ライオンズと、5球団を渡り歩き、829試合登板、206勝158敗193セーブ、2987奪三振、防御率2.49という、素晴らしい成績を残した、江夏豊(えな …
スポーツ誌「Number」の初代編集長だった岡崎満義さんが中心になって引退試合が企画され、1985年1月19日(36歳)東京都多摩市の市営一本杉球場で、引退試合「たったひとりの引退式」が行われると、収容人数いっぱいの約1万6000人のファンが詰めかけるほか、
当時、現役バリバリだった、落合博満さん、高橋慶彦さん、福本豊さん、山本浩二さん、齊藤明雄さんらも駆けつけるなど、温かい引退試合となったそうです。
西武ライオンズでは引退試合(セレモニー)を行ってもらえなかった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、スポーツ誌「Number」の初代編集長だった岡崎満義さんらによって引退試合が行われると、現役バリバリの、落合博満さん、高 …
最多勝2回、最優秀防御率1回、最優秀救援投手5回、最多奪三振6回ほか、シーズン401奪三振、オールスター9連続奪三振、ノーヒットノーラン1回(自身のホームランで達成)など、凄まじい記録で、日本中の人々を熱狂させた、江夏豊 …
36歳の時にメジャーリーグに挑戦
そんな江夏豊さんは、現役引退後の1984年12月26日(36歳)、ミルウォーキー・ブリュワーズとマイナー契約を結び、メジャーに挑戦することになると、
西武では、広岡達朗監督に嫌われて二軍に落とされ、それっきり一軍には呼んでもらえず、そのまま現役引退した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、ひょんなことから、マイナーリーグのミルウォーキー・ブリュワーズと契約し、メジャー …
当初は、周囲から冷ややかな目で見られるも、日を追うごとに評価を上げていくのですが、
1984年12月26日(現地時間・日本時間では27日)、マイナーリーグのミルウォーキー・ブリュワーズと契約しメジャーに挑戦することになった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、翌年1985年2月上旬に渡米し、テスト生としてブ …
日本とアメリカの野球の違いにうまく順応することができずに成績を残すことができず、1985年4月4日、解雇されています。
1985年3月に、ミルウォーキー・ブリュワーズのスプリングキャンプに合流すると、当初は、「日本から太った男が来た」と、冷ややかに見られるも、日を追うごとに着実に評価を上げていったという、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが …
今から約40年前、まだ、エージェントなどなかった時代に、マイナーリーグのミルウォーキー・ブリュワーズのテスト生として海を渡り、たった一人、メジャーリーグに挑戦した、江夏豊(えなつ ゆたか)さんは、ライバルたちとしのぎを削 …
ミルウォーキー・ブリュワーズでメジャーを目指すも、最終ロースターの25人に残ることが出来なかった、江夏豊(えなつ ゆたか)さんですが、実は、そのまま、半月、マイナーに残っていれば、メジャーに昇格出来たといいます。 「江夏 …
江夏豊の30代(現役引退後)~40代(逮捕・服役まで)
江夏豊さんは、現役引退後の1985年、37歳の時から、日本テレビ・ラジオ日本野球解説者、東京中日スポーツ野球評論家として活動する傍ら、映画、テレビドラマ、バラエティ番組にも出演するなど、タレント、俳優としても幅広く活動していたのですが・・・
1993年3月2日(44歳)には、覚醒剤取締法違反(所持・使用)の現行犯で逮捕されると、懲役2年4ヶ月の実刑判決を言い渡されて服役し、1995年4月(46歳)に仮釈放されています。
1966年、第1次ドラフト会議で、阪神タイガースに1位指名されて入団すると、以降、18年の現役生活で、シーズン401奪三振、オールスター9連続奪三振、江夏の21球など、様々な伝説を残すほか、広島や日本ハムを優勝に導き、& …
江夏豊の40代(服役後)~70代(現在)
それでも、江夏豊さんは、1996年(48歳)~2010年(62歳)には、デイリースポーツで野球評論家、テレビ大阪で野球解説者として活動するほか、「週刊ベースボール」での連載なども執筆しています。
そして、2015年、67歳の時には、阪神タイガースで一軍春季キャンプ、2016年、68歳の時には、二軍春季キャンプでそれぞれ臨時コーチを務めています。
また、2024年7月15日、76歳の時には、車椅子ながら、東京ドームで開催された巨人対阪神OB戦に来場し、江夏豊さんを中心にして、阪神・巨人両軍の集合写真が撮影されると、
かつて、バッテリーを組んでいた田淵幸一さんらの顔を見ながら、
なつかしい面々と会えてうれしかった
と、語っています。
(左から)江夏豊さん、王貞治さん、中畑清さん。
1966年、ドラフトで4球団から1位指名を受け、大阪学院大学高等学校卒業後、阪神タイガースに入団すると、その後、剛腕サウスポーとして5球団で活躍した、江夏豊(えなつ ゆたか)さん。 そんな江夏豊さんは、小学5年生の時に、 …