1966年、ドラフト4球団から1位指名を受け、阪神タイガースに入団すると、206勝158敗193セーブ2987奪三振ほか、シーズン401奪三振、オールスター9連続奪三振など輝かしい成績を残した、江夏豊(えなつ ゆたか)さん。

今回は、そんな江夏豊さんの若い頃から現在までの活躍や経歴を時系列順にご紹介します。

江夏豊

「江夏豊の生い立ちは?小5で左利き矯正!中1では先輩殴り返し野球部退部!」からの続き

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江夏豊の10代の頃

高校時代からエースとして活躍し高校球界で有名だった

江夏豊さんは、高校は、野球では無名の大阪学院大学高等学校に進学しているのですが、1964年、高校1年生の時には、背番号1をつけて全国高等学校野球選手権大阪大会1回戦の春日丘高校戦に登板すると、9対0と完封勝利し、2回戦の淀川工科高校戦も、3対0と完封で勝利。

ただ、3回戦では、浪華商業高等学校(浪商)に2対4で負けてしまうのですが、1965年、高校2年生の夏の大阪大会では、1回戦で同志社香里高校を2対0の完封勝利で下すと、2回戦の浪商にも完投勝利。

そして、続く、3回戦の大阪府立泉尾工業高等学校戦では5対0で完封勝利、4回戦の大阪市立扇町高等学校戦でも、延長10回の末、1対0で完封勝利し、一躍、高校球界で有名になったのでした。

(準々決勝の興國商業高校戦ではサヨナラ負けを喫しています)


高校3年生の夏の大阪大会の大阪府立八尾高等学校戦で10人連続三振を記録

そんな江夏豊さんは、1966年、高校3年生の夏の大阪大会も、三振の山を築いて、順調に勝ち進み、4回戦の大阪府立八尾高等学校戦でも4対0で完封して勝ち進むのですが、準決勝では桜塚高校に敗退してしまいます。


(ただ、江夏豊さん自身は、4回戦の大阪府立八尾高等学校戦では、10人連続三振を記録しています)

高校卒業後はプロ入りせずに東海大学に進学することに決めていた

すると、江夏豊さんは、高校野球の激戦区である大阪で、新興の大阪学院大学高等学校をベスト4に導いたことから、「左腕 江夏」として注目され、プロ野球チームから誘いがくるようになったそうですが、

江夏豊さんは、プロ入りではなく、一番熱心に誘ってくれた東海大学に進学することに決めていたといいます。

高校3年生の時に阪神タイガースにドラフト1位指名され、阪神に入団

そんな中、1966年9月5日、江夏豊さんは、第1次ドラフト会議において、阪神タイガースに1位指名されると、関西の人気球団からの指名に、大学1本だった気持ちが揺らいだそうですが、それでも、東海大学に進学するという気持ちは変わらなかったそうです。

しかし、阪神のベテランスカウトの佐川直行さんに、

おまえなんかほしくない

と、言われると、

カーッとなり、つい、「阪神に入る」と啖呵(たんか)を切って、阪神タイガースに入ることになったのだそうです。


18歳の時(阪神入団1年目)は藤本定義監督にバッター転向を勧められていた

そんな江夏豊さんは、阪神タイガース入団1年目の1967年には、早くも一軍で先発として起用されるも、なかなか、安定したピッチングができないでいたそうですが、


同年4月23日、中日戦で、バッターとして打席に入ると、4回2死の場面で2ランホームランを放ち、試合後、藤本定義監督から打者転向を勧められたそうで、

これに(投手としてのプライドを傷つけられ)カーッとした江夏豊さんは、同年4月29日の広島戦では、先発出場して、見事、10奪三振で完投勝利したそうで、登板5試合目で初勝利を飾ると、以降、6連勝し、すっかり、「バッター転向」の話は立ち消えになったのだそうです。

19歳の時に新記録となる354個目の奪三振は王貞治から奪っていた

結局、この年(入団1年目の1967年)、江夏豊さんは、高卒1年目の18歳にして、いきなり、12勝13敗、防御率2.74、225奪三振(奪三振王)という素晴らしい成績を残すと、

入団2年目の1968年も、次々と奪三振記録を塗り替え、新記録となる354個目の奪三振は、狙い通り、巨人の王貞治さんから奪ったのでした。

(結局、この年の奪三振は401まで伸ばし、この記録は2024年現在も破られていません)




江夏豊が20代の頃

23歳の時にオールスター第1戦で9者連続奪三振を達成

そんな江夏豊さんは、1971年7月17日、23歳の時には、オールスター第1戦(阪急西宮球場)に登板すると、大会記録となる、9者連続奪三振を達成しています。

江夏豊の9者連続奪三振
9者連続奪三振を達成した江夏豊さん。

25歳の時に自身のサヨナラ本塁打で史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成

また、江夏豊さんは、1973年8月30日、25歳の時には、甲子園で行われた中日戦で、史上初の延長線ノーヒットノーランを達成しています。

(延長11回裏に自身のサヨナラ本塁打で勝利して達成)

25歳の時に阪神球団幹部から呼び出され負けるように指示されていた

しかし、江夏豊さんは、1973年10月19日、25歳の時、阪神がマジック1になり、次の日の中日戦か明後日の巨人戦に勝てば優勝という時、

阪神の球団幹部に呼び出され、明日の中日戦は、優勝したら金がかかるからと、負けるように指示されたといいます。

江夏豊さんは、これを聞いて、怒りでカーッとなり、

こうなったら絶対勝ってやる

と、意気込んだそうですが、力みすぎて、中日に敗れてしまったのでした。

25歳の時に金田正泰監督にキレていた

さらに、江夏豊さんは、「優勝したら金がかかるから負けるように」との指示を了承したという、阪神タイガースの金田正泰監督とは、もともとは、「豊」「オジキ」と呼び合う仲だったそうですが、

1973年のシーズンが始まる前から金田正泰監督の人間性にキレ、シーズン終了後の11月には、

金田(正泰)監督の下ではプレーができない

と、表明します。



28歳の時に阪神タイガースに「トレード」を通告されていた

そんな江夏豊さんは、1976年、28歳の時には、阪神タイガースに、「トレード」を通告されてしまうのですが、

1967年に入団して以来、6年連続最多奪三振王に輝くほか、数々の記録を打ち立て、阪神のエースとして活躍してきた江夏豊さんにとって、この通告は、簡単に受け入れられるものではなく、引退も考えたといいます。

しかし、最終的には、トレードを受け入れ、南海ホークスへ移籍したのでした。

28歳の時に南海ホークスに移籍したのは野村克也監督に惹かれていたからだった

こうして、1976年1月、28歳の時、南海ホークスに移籍した江夏豊さんですが、実は、1975年のシーズン終了後、なかなか、阪神球団から契約交渉の連絡がない中、週刊誌の記事で南海へのトレードを知り、引退を考えるようになっていた時、

(トレード先だと噂されていた)南海の野村克也監督に会食に誘われると、会食中、野村克也監督は、ひたすら野球の話をしていたそうで、江夏豊さんは、そんな野村克也監督の野球の話を聞くうちに、だんだん、野村克也監督に惹かれていく自分を感じていたといいます。

29歳の時に野村克也監督にリリーフ転向を打診されていた

江夏豊さんは、南海ホークス移籍1年目の1976年は、痛めていた肩と肘の影響で成績が振るわず、2年目の1977年には、野村克也監督からリリーフ転向を打診されたそうです。

ただ、(当時、投手は先発以外は二流とされていたことから)なかなか納得できず、野村監督との話し合いは平行線をたどっていたそうですが、

野村克也監督に、

なあ豊、野球界にいっぺん、革命を起こしてみろよ

と、言われたそうで、

江夏豊さんは、この「革命」という言葉に心を動かされ、リリーフ転向を決意したのだそうです。

29歳の時にセーブ王(最多セーブ)のタイトルを獲得

こうして、江夏豊さんは、1977年、29歳の時、リリーフに転向すると、すぐに、パ・リーグ記録の17セーブを更新する19セーブ(4勝2敗19セーブ)でパ・リーグ最多セーブのタイトルを獲得するのですが・・・

第2の投手人生を与えてくれた大恩人である野村克也監督が、この年1977年限りで解任され、退団が決定してしまったことから、江夏豊さんも、野村克也監督とともに退団する決意をし、金銭トレードで広島東洋カープに移籍したのでした。

江夏豊の30代の頃(現役時代)

31歳の時に広島カープで初のリーグ優勝を経験

江夏豊さんは、1978年、30歳の時に、広島東洋カープに移籍すると、古葉竹識監督のはからいで、痛めていた肩を十分に休めることができ、また、調整がうまくいったこともあり、ボールの勢いが復活すると、この年(1978年)5勝4敗12セーブを挙げる活躍を見せます。

そして、翌年1979年、31歳の時には、9勝5敗22セーブを挙げ、広島のリーグ優勝に大きく貢献しているのですが、これは、江夏豊さんにとって、プロ入り13年目にして初の優勝だったのでした。

31歳の時に伝説の「21球」(9回無死満塁から脱出に成功)

その後、江夏豊さんは、1979年、日本シリーズの近鉄バファローズ戦では、9回無死満塁というピンチを、見事、切り抜け、広島を日本一に導いているのですが、

この9回に投げた球数「21球」は、「伝説の21球」として、現在も語り継がれています。

32歳の時には日本ハムファイターズに移籍

江夏豊さんは、広島カープに移籍3年目の1980年(32歳)も、前年同様、広島のリーグ優勝&日本一に貢献するのですが、この年のシーズンオフ、日本ハムファイターズの大沢啓二監督に誘われ、日本ハムファイターズに移籍すると、

大沢啓二監督をお父さんのように慕うようになっていったといいます。

35歳の時に大沢啓二監督の勇退に伴い、西武への移籍を勧められていた

江夏豊さんは、日本ハムファイターズ移籍1年目の1981年(33歳)には、いきなり日本ハムのリーグ優勝に貢献し、「優勝請負人」と称されるようになるのですが、

1983年のシーズンオフ(35歳)に大沢啓二監督が勇退し、フロント入りすると、大沢啓二監督に西武へ移籍することを勧められたそうですが、実は、西武は、江夏豊さんが一番行きたくない球団だったといいます。

36歳の時に西武ライオンズに移籍するも広岡達朗監督に嫌われて二軍に落とされ、それきり一軍に呼んでもらえなかった

江夏豊さんは、1984年、36歳の時に、西武ライオンズに移籍するのですが、監督、コーチ、主力が参加する食事会で、広岡達朗監督に何気なく発した一言が、広岡達朗監督の気分を害し、二軍に落とされると、それっきり一軍には呼んでもらえなかったといいます。

36歳の時に現役を引退

江夏豊さんは、1984年、36歳の時、広岡達朗監督に、二軍に落とされたまま一軍への再登録の打診すら1度もなく、完全に一軍への復帰の見込みがないと分かると、

前年まで、5年連続最多セーブに輝くほどの活躍だったにもかかわらず、まっとうな根拠もなく、監督の好みで一軍に上がれないプロ野球に何の魅力も感じなくなり、11月12日現役引退を発表したのでした。

36歳の時に「たったひとりの引退式」をしてもらっていた

江夏豊さんは、現役時代、阪神タイガース、南海ホークス、広島カープ、日本ハムファイターズ、西武ライオンズと、5球団を渡り歩き、829試合登板、206勝158敗193セーブ、2987奪三振、防御率2.49という、素晴らしい成績を残したにもかかわらず、どの球団からも引退試合をしてもらえなかったのですが、

スポーツ誌「Number」の初代編集長だった岡崎満義さんが中心になって引退試合が企画され、1985年1月19日(36歳)東京都多摩市の市営一本杉球場で、引退試合「たったひとりの引退式」が行われると、収容人数いっぱいの約1万6000人のファンが詰めかけるほか、

当時、現役バリバリだった、落合博満さん、高橋慶彦さん、福本豊さん、山本浩二さん、齊藤明雄さんらも駆けつけるなど、温かい引退試合となったそうです。


36歳の時にメジャーリーグに挑戦

そんな江夏豊さんは、現役引退後の1984年12月26日(36歳)、ミルウォーキー・ブリュワーズとマイナー契約を結び、メジャーに挑戦することになると、

当初は、周囲から冷ややかな目で見られるも、日を追うごとに評価を上げていくのですが、

日本とアメリカの野球の違いにうまく順応することができずに成績を残すことができず、1985年4月4日、解雇されています。



江夏豊の30代(現役引退後)~40代(逮捕・服役まで)

江夏豊さんは、現役引退後の1985年、37歳の時から、日本テレビ・ラジオ日本野球解説者、東京中日スポーツ野球評論家として活動する傍ら、映画、テレビドラマ、バラエティ番組にも出演するなど、タレント、俳優としても幅広く活動していたのですが・・・

1993年3月2日(44歳)には、覚醒剤取締法違反(所持・使用)の現行犯で逮捕されると、懲役2年4ヶ月の実刑判決を言い渡されて服役し、1995年4月(46歳)に仮釈放されています。

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江夏豊の40代(服役後)~70代(現在)

それでも、江夏豊さんは、1996年(48歳)~2010年(62歳)には、デイリースポーツで野球評論家、テレビ大阪で野球解説者として活動するほか、「週刊ベースボール」での連載なども執筆しています。

そして、2015年、67歳の時には、阪神タイガースで一軍春季キャンプ、2016年、68歳の時には、二軍春季キャンプでそれぞれ臨時コーチを務めています。

また、2024年7月15日、76歳の時には、車椅子ながら、東京ドームで開催された巨人対阪神OB戦に来場し、江夏豊さんを中心にして、阪神・巨人両軍の集合写真が撮影されると、

かつて、バッテリーを組んでいた田淵幸一さんらの顔を見ながら、

なつかしい面々と会えてうれしかった

と、語っています。

江夏豊
(左から)江夏豊さん、王貞治さん、中畑清さん。

お読みいただきありがとうございました

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