お父さんに結婚を猛反対されるも、なんとか認めてもらい、正子さんと結婚したという、江川卓(えがわ すぐる)さんですが、今回は、そんな妻・正子さんとの結婚後の関係や子供についてご紹介します。
「江川卓は父親に妻との交際&結婚を猛反対されていた!」からの続き
江川卓は晴れて正子と結婚するも「空白の一日」の影響で家の中は常に重苦しい雰囲気が漂っていた
反対していたお父さんにもようやく認めてもらい、晴れて正子さんと結婚することができた江川さんですが、「空白の一日」の騒動がずっと尾を引いていたことから、その汚名を返上するには勝つしかないと、いつも眉間(みけん)にシワを寄せているような状態だったそうで、
正子さんもその影響でピリピリし、家の中は、常に、笑いも楽しさもない重苦しい雰囲気が漂っていたそうです。
江川卓は長女・早(さき)が誕生し、暗い家に一筋の光が差し込んだように感じていた
そんな状況に、江川さんは、「好きで一緒になった女房なのに、これでは家庭が崩壊してしまう」と、危機感を募らせていたそうですが、
そんな中、正子さんの妊娠が分かったそうで、これをきっかけに自分の性格を直して家庭の空気を一新しようと考えを改めたのだそうです。
そして、実際、娘の早(さき)さんが誕生すると、暗い江川家に一筋の光が差し込んだように感じたそうで、自身の性格も温厚になったと感じるようになったのだそうです。
江川卓は結婚後も妻・正子に2度手を上げるも、わがままに耐えてくれたことに感謝していた
それでも、江川さんは、その後も、2度、正子さんに手を上げたことがあったそうですが、
江川さんは、著書「たかが江川されど江川」で、
いずれにせよ、家庭人としては決して合格点をつけられないはずの僕に、女房は本当によくついてきてくれたと思う。最近になって、正子がポツンと言ったことがある。「実は結婚してすぐ、長嶋(茂雄)さんの奥様に言われたことがあります。『正子さん、野球人と結婚するのは、辛いわよ。大変よ。でも、幸せって別にあるからね』って」
別の幸せ――。正子はこう説明した。
「試合を球場で見せてもらうと、つくづく思うのよ。9回、リードしていて、〝江川コール〟が起こるでしょ。ゴォーという地鳴りのような歓声。あれを聞くと、体がふるえてきてしまう。凄いことを私の夫はやっているんだって」
嬉しかった。野球人としての誇りを共有して、正子は僕のわがままに耐えてくれていたのだ。
と、正子さんへの感謝を綴っています。
江川卓は子供が生まれてからも妻・正子とは恋人同士のような関係
ちなみに、江川さんは、子供が生まれてからも、正子さんとは恋人同士のように六本木でワインデートや食事を楽しむなど、外食する時は必ず正子さんと一緒だったといいます。
そのため、現役時代、いくら、「フライデー」の記者に張り込みをされても、(連れている女性はいつも正子さんだったため)スクープ写真を撮られることはなかったそうです。
また、ある時には、巨人のフロントの人から、ついに尻尾をつかんだという表情で含み笑いをしながら、「昨日、六本木で見たよ。なかなかの女性を連れていたじゃないか」と言われたこともあったそうですが、その女性も正子さんだったそうです。
(現在も、江川さんは、照れることもなく、誰にも負けない愛妻家だと公言しています)
江川卓は子供(娘と息子)にユニークな名前をつけていた
そんな江川さんと正子さんの間には、女の子と男の子が1人ずつ誕生しているのですが、長女は早(さき)さん、長男は与(あと)さんと、ユニークな名前をつけています。
(2人とも情報がないことから、芸能人ではないようです)
実は、江川(「卓(すぐる)」)さんの弟さんの名前は、「中(あたる)」というそうですが、もう1人生まれていたら、「了(さとる)」と名付けられる予定だったことから、これにならい、子供たちの名前も一文字で決めたいと思ったそうで、
自身の名前である「卓」にちなんだ名前にしたかったことから、考え抜いた挙げ句、「卓」の「ト」の部分を取って「早」にしたのだそうです。
(ト + 早 = 卓)
ちなみに、早さんの「早」という漢字は、もともと、太陽が上ってくる姿、日光の差し始めを表したものだそうで、江川さんは「サキ」という語感も含め、この字をとても気に入っているそうですが、「空白の一日」騒動が尾を引き、笑いも楽しみもない重苦しい雰囲気の江川家で、早さんはまさに太陽のような存在となったそうです。
そして、長男の「与(あと)」さんは、長女の「早」に対し、「後」という多少の遊び心があり、どんな漢字をあてはめるか一生懸命考えた末、「力を合わせる」という意味のある「与」にしたそうで、早さんと力を合わせて、大きく、良い子に育ってほしいという願いを込めたのだそうです。
さて、いかがでしたでしょうか。
江川卓さんの、
- 年齢は?出身は?身長は?本名は?
- 幼い頃は父親に旅先で写真をたくさん撮られたが・・・
- 父親は将来息子の江川卓がプロ野球のスター選手になると信じていた
- 父親は長男をプロ野球の選手にすることが夢だった
- 幼少期は臆病で泣き虫だった
- 父親は臆病な息子の為に急流の天竜川を突然泳いで渡ると言い出していた
- 父親は急流の天竜川を泳いで渡りきっていた
- 小学2年生の時に野球チームの投手だった母方の叔父に野球を教えてもらっていた
- 小学3年生の時に父親に誘われ天竜川の砂利道から石投げをしていた
- 天竜川の砂利道から投げた石は父親と大差ない場所に落ちていた
- 小学6年生の時には川幅約80メートルある向こう岸に投げた石が届いていた
- 父親は江川卓を野球に仕向けようと天竜川の石投げに誘ったわけではなかった?
- 中学の野球部ではレフトを守るも長嶋茂雄と同じサード(三塁手)志望だった
- 中学1年生の秋からはピッチャーに転向させられていた
- 父親にはかねてからピッチャーをやることを勧められていた
- 父親の転勤が決まるも仲間と離れるのが嫌だった
- 父親にドラマティックなセリフで説得され転校する踏ん切りがついていた
- 転校先の小山中学校野球部ではノーヒットノーランを達成しチームを県大会優勝に導いていた
- 小山高、日大一高、日大三高などの強豪校からスカウトされ、甲子園が急に身近なものに思えていた
- 中学卒業後は作新学院高等学校に進学
- 甲子園に出場できるほど野球に強く、かつ、早稲田か慶應に進学できる学力のある高校を探していた
- 大宮高校に進学する予定だったが受験手続きが間に合わず断念していた
- 作新学院進学はOBから誘われて決めていた
- 高校1年生の時に完全試合を達成
- 高校1年生の時には「第53回全国大会栃木県予選」準決勝の宇都宮商業高校戦で敗退するも・・・
- 高校1年生にして「秋季関東地区大会栃木県予選」で作新学院を優勝に導いていた
- 秋季関東大会の初戦・前橋工業高等学校戦では、頭部死球を受け、耳から血を流して退場していた
- 10奪三振のうち空振りとスリーバント失敗の2つを除きすべて見逃しの三振だった
- 高校2年生の春にもノーヒットノーラン(2回)
- 高校2年生の夏の全国大会栃木県予選では3試合連続ノーヒットノーランを達成していた
- 高校2年生の夏の全国大会栃木県予選では36イニング連続無安打に抑えるも・・・
- 高校2年生の夏の全国大会栃木県予選では準決勝の小山高等学校戦でサヨナラ負けを喫していた
- 高校2年生の時に全国紙に取り上げられ一躍有名に
- 「怪物」と呼ばれるように
- 高校2年生のとき秋の栃木県予選優勝に大きく貢献
- 高校2年生のとき秋の関東地区大会優勝に大きく貢献
- 高校2年生の銚子商業高等学校戦での投球が最高の投球だった
- 高校3年生の春の甲子園では江川卓のピッチングを見ようと満員の5万5千人の観客が詰めかけていた
- 北陽高等学校、小倉南高等学校、今治西高等学校の3試合で完封勝利していた
- 小倉南高等学校の重田監督ほかナインは江川卓の速球に対し対策を講じるもバットに当てるだけで精一杯だった
- 高校3年生の春の選抜大会では準決勝の広島商業高等学校に敗退しベスト4に終わっていた
- 広島商業高等学校野球部の迫田穆成監督は江川卓対策として「打たないこと」「揺さぶり」の2つの作戦を考えていた
- 広島商業高等学校の佃正樹投手と達川光男捕手らは江川卓を絶賛
- 「怪物フィーバー」により自分ばかりが目立つことを気にかけるようになっていった
- 江川卓はチームメイトから孤立していた
- 一塁手・鈴木秀男は江川卓と仲が悪かったという噂を否定しているが・・・
- 江川卓はチームメイトに気を遣い一人でいることが多くなっていった
- 江川卓はチームメイトとの不仲説を否定していた
- 高校3年生の夏の甲子園全国大会栃木県予選ではノーヒットノーランを3回も達成していた
- 高校3年生の夏の甲子園全国大会栃木県予選では圧倒的な投球で作新学院を甲子園に導いていた
- 県予選にもかかわらず「怪物・江川」を見ようと県外からも観客が殺到していた
- 柳川商業高等学校戦では福田精一監督の奇策により先制点を挙げられていた
- 柳川商業高等学校の福田精一監督の「超変則内野手5人」シフトにより、作新学院はサヨナラのチャンスを逃していた
- 作新学院は延長15回でなんとか柳川商業高等学校にサヨナラ勝ち
- 柳川商業高等学校の福田精一監督のコメント
- 高校3年生の夏の甲子園2回戦(銚子商業高等学校戦)も延長線に突入していた
- 銚子商業高等学校戦では延長10回裏のピンチを小倉捕手のブロックで切り抜けていた
- 銚子商業高等学校戦では延長12回裏に激しい雨となりサヨナラ負けのピンチを迎えていた
- 最後の1球を投げる前に内野手全員をマウンドに集め「真っ直ぐを力いっぱい投げたい」と言っていた
- 渾身のストレートを投げるも押し出しでサヨナラ負け
- 渾身のストレートを投げたことで後悔はなかった
- 「第55回全国高等学校野球選手権大会」開幕前からすでに疲れていた
- 銚子商業高等学校のエース・土屋正勝は江川卓の不調に気づいていた
- 「怪物・江川フィーバー」によりチームメイトとの間に溝ができていることを気に病んでいた
- 千葉国体でも決勝戦で銚子商業高等学校に敗退していた
- 早慶戦でプレーすることに憧れ、慶應義塾大学進学を希望していた
- 慶応大を受験するため愛知県豊橋の受験合宿所で1日10時間の猛勉強に励んでいた
- 1973年のドラフト会議で阪急ブレーブスから1位指名を受けるも、大学進学を希望していたため入団を拒否していた
- 慶應義塾大学は、法学部、商学部、文学部すべて不合格だったが・・・
- 本当は楽々合格ラインを超えていた?
- 慶應義塾大学を不合格になったのは大学側の思惑が絡んでいた?
- 六大学野球に進むべく法政大学法学部第二部法律学科を受験し合格
- 法政大学野球部入部後は五明公男監督に徹底的に走り込みなどの体作りをさせられていた
- 五明公男監督には高校時代の良い投球フォームを思い出せるよう尽力してもらっていた
- 「法大野球の父」藤田省三からつきっきりで投球フォームや野球理論について指導されていた
- 新人戦の準決勝・慶應義塾大学戦で完投勝利し優勝に貢献
- 同期には甲子園を沸かせたスター選手が勢ぞろいしていたため「花の49年組」と呼ばれていた
- 法政大学下級生時代は活躍に嫉妬した上級生にイジメられていた
- 五明公男監督が優秀な1年生を中心としたチーム作りをしていたことから上級生の出番はほとんどなかった
- 大学1年生の秋季リーグ初戦の立教戦では完封勝利(11回2安打10奪三振)していた
- 東京六大学野球リーグでは慎重にコーナーに投げ分ける投球をしていた
- 早稲田との1回戦と立教との3回戦でも完投勝利していた
- 東大1回戦では集中打を浴びて2対3の逆転負けし初黒星を喫していた
- 東大3回戦では一死三塁のピンチを招くも東大がスクイズを仕掛けたのを冷静に見抜き逆転勝利
- 明治大学1回戦では2対1で逆転勝ちしていた
- 1974年秋、法政の7シーズンぶりの優勝に貢献
- 大学2年生の春のリーグ戦では東大1回戦で完封、早稲田1回戦と3回戦で完投
- 明治大学2回戦では延長10回に勝ち越しタイムリーを打たれ3対2で逆転負け
- 明治大学2回戦では8対2で圧勝
- 大学2年生の春リーグも8勝3敗と大活躍も明治戦で2敗し優勝を逃していた
- 1975年、2年生の秋は、立教1回戦で完投、慶応1回戦で延長12回完投
- 慶応戦では1回戦の12回完投に続き2回戦でも先発したうえ3回戦も延長13回完投
- 早稲田戦でも1回戦の先発に続き2回戦でも登板すると3回戦でも延長13回を完投
- 登板過多で右肩を疲労骨折するも筋肉痛と発表されていた
- 大学3年生の春のリーグ戦では東大1回戦で完封し通算20勝を達成
- 慶応戦では4連戦全てに登板
- 立教1回戦で完投、早稲田戦では1回戦完封に続き2回戦と3回戦にも登板
- 大学3年の春は6勝1敗(6完投2完封)防御率0.56の抜群の成績でベストナイン
- 大学3年生の秋のリーグ戦では、東大1回戦で完投、慶応戦では1回戦で完封、3回戦でも完投
- 立教戦では1回戦と3回戦で完封勝利し六大学野球通算30勝を達成
- 早稲田戦では3戦連続完投と大車輪の活躍
- 大学3年の秋も8勝2敗(8完投3完封)防御率0.74の抜群の成績でベストナイン
- 大学4年生の春も慶応戦で1回戦で完封、3回戦で完投
- 大学4年生の春も東大1回戦で完封、早稲田戦では1回戦と3回戦で完封
- 大学4年生の春も8勝0敗(8投5完封)防御率0.50の抜群の成績でベストナイン
- 大学4年生の秋のリーグ戦でも立教1回戦で完封勝利し六大学新記録となる通算15度目の完封勝利を達成
- 大学4年生の秋のリーグ戦でも慶応戦では1回戦で完投、2回戦でも11イニング、3回戦でも完投
- 東大1回戦では延長14回完投
- 六大学史上2位タイとなる通算44勝を記録していた
- 早稲田戦は全て登板し、1回戦を完投、3回戦を完封
- 明治1回戦で完封勝利(通算17度目)し、法政の4連覇に王手をかける
- 六大学野球通算48勝まであと1勝と迫るも、その後、登板するつもりはなかった
- 法政の4シーズン全て完全優勝(4連覇)に大きく貢献
- 法政大学時代の成績が凄すぎる
- 国会議員の船田中に後ろ盾になってもらうよう依頼していた
- 船田中は記者会見を開き、江川卓が巨人入りを希望していることから他球団の指名は回避してほしいと語っていた
- 1977年のドラフト会議ではクラウンライターライオンズが指名順位1番を引き当てていた
- クラウンライター・ライオンズから1位指名を受けるも本拠地が九州であることを理由に入団を拒否
- 法政大学卒業後は翌年のドラフトまで南カリフォルニア大学に野球留学していた
- クラウンライター・ライオンズを引き継いだ西武ライオンズ(関東の球団)から入団交渉されるも入団を拒否
- 1978年のドラフト会議を前に父親から「巨人に入れるかもしれない」から早く帰国するようにと連絡があった
- 帰国後は後見人・船田中衆議院議員の秘書の蓮実進邸で一晩を過ごしていた
- 1978年11月21日午前0時過ぎ、船田中衆議院議員の秘書・蓮実進と巨人が会談
- 父親から1978年11月21日はどこの球団とも自由に契約ができると聞かされ驚いていた
- 野球協約には1日だけ空白の日があった
- 江川卓はドラフト対象学生にあてはまらず「ドラフト対象外」だった
- 巨人が江川卓を「入団契約可能」と解釈した理屈は?
- 江川卓本人は最初は「空白の一日」の利用を若干躊躇(ちゅうちょ)していた
- 1時間ほど考え、巨人に入団することを決意していた
- 巨人入団会見を行い、舞い上がるような気持ちになっていた
- 江川卓と巨人の契約はすぐには連盟には受理されずプロ野球実行委員会で討議されることとなった
- プロ野球実行委員会で江川卓と巨人の契約が討議されると巨人は他の11球団から総攻撃を受けていた
- セ・リーグ会長の鈴木龍二により江川卓と巨人の契約(選手登録)を無効とする裁定が下される
- 巨人は江川卓との契約無効を不服とし11月22日のドラフト会議をボイコットしていた
- 金子鋭コミッショナーは江川卓の巨人入団契約を認めず、阪神の江川卓に対する交渉権獲得を認めていた
- 金子鋭コミッショナーは江川卓を一旦阪神に入団させた後に巨人にトレードさせることを強く要望していた
- 阪神は当初は江川卓をトレードに出すことに強く反発していたが・・・
- 一転、巨人のエース・小林繁との交換トレードで阪神から巨人に移籍
- 阪神・小津正次郎球団代表は一転して江川卓を巨人にトレードで出したことで猛バッシングを受けていた
- 阪神が一転して江川卓のトレードを受け入れた理由とは?
- 阪神の小津正次郎球団代表は日本テレビの小林与三次社長から小林繁との交換トレードを持ちかけられていた
- 小津球団代表が阪神(自身)のメンツを保つため描いた筋書きだった
- 協約違反との意見噴出で、小林繁は金銭トレードで阪神、江川の巨人へのトレードは開幕後とされた
- 金子鋭コミッショナーが騒動の責任を取って辞任
- 小林繁との交換トレードではなく金銭トレードにして欲しいと巨人に頼み込んでいた
- 一軍デビューの阪神戦では被本塁打3本の5失点で敗戦投手になっていた
- 巨人入団1年目の1979年は阪神の小林繁の活躍にかすんで影が薄かった
- 「空白の一日」でついたダーティーなイメージを払拭するには試合で勝つしかないと考えていた
- 巨人入団2年目の1980年8月16日に小林繁と初対決
- 出だしは調子が上がらなかったものの味方の援護で1対0とリード
- 1対1の同点に追いつかれるもその裏のチャンスで自らタイムリーヒットを放っていた
- 阪神・小林繁との初対決は176球で完投勝利していた
- 小林繁とステーキ店で偶然会っていた
- 小林繁は背中から肩に手を置いて少し微笑んでくれた
- 小林繁にどうしても勝ちたいと思うようになっていった
- 2007年には小林繁と酒造メーカー「黃桜」のCMで共演していた
- 入団3年目の1981年は、最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率、最多完封の投手5冠で巨人を4年ぶりの優勝に導いていた
- 沢村賞を受賞できなかったのは「人格的に問題がある」から?
- 巨人ファン以外からも同情の声が多く集まり、これをきっかけに「空白の一日」でついたダーティーなイメージが徐々に払拭されていった
- 沢村賞の選考基準
- プロ入り前は通算200勝ぐらい軽く達成できると思っていた
- 1軍デビューの阪神戦の打席でチョロいと思っていた阪神・山本和行投手の投球に3打席とも三球三振に打ち取られていた
- 阪神・山本和行投手のヒョロい球がフォークボールと気づき過信が消えていた
- 20勝への道のりは遠く辛いものだったが、だからこそ、どうしても20勝したかった
- 入団3年目の1981年、19勝目から20勝目までの1週間は極度の緊張状態で食事が喉を通らなかった
- 入団3年目の1981年、20勝をかけた試合では妻と娘のためにノーヒットノーランを狙っていた
- 20勝を達成した時は珍しく無意識にガッツポースをしてしまっていた
- 入団3年目の1981年は投手5冠で巨人を4年ぶりのリーグ優勝と8年ぶりの日本一に導いていた
- 1981年の日本一のウィニングボールは自ら捕球するも行方不明
- 4年目の1982年も19勝ほか最多奪三振や最多完封など大活躍だった
- 1983年は16勝でリーグ優勝に貢献するも日本シリーズでは右足ふくらはぎ肉離れで不本意な投球だった
- 1983年は夏に再び右肩を悪化させていた
- 1984年のオールスターゲーム第3戦で8者連続奪三振を記録
- あと1球で9者連続奪三振だった
- 9人目の大石大二郎選手はワンバンのカーブで振り逃げ三振にして、10連続奪三振を狙っていた
- 江川卓は当初、2イニング(4回と5回)の登板予定だった
- 入団7年目の1985年は痛めていた右肩が悪化し規定投球回到達投手の中で防御率が最下位となっていた
- 入団8年目の1986年は中国鍼治療が功を奏して復調し16勝6敗、1987年も8月終了時点で12勝2敗と好調だった
- 入団9年目の1987年9月20日の広島戦で小早川毅彦に2本塁打を浴びたことがきっかけで現役引退を決意
- 1987年9月20日の広島戦は近年で一番のコンディションだった
- 9回裏二死、高橋慶彦を内野安打(実質的には中畑清のエラー)で出塁させていた
- 9回裏二死一塁で迎えた小早川毅彦をストレートで仕留めにいっていた
- 完璧だと思って投げた勝負球(ストレート)を小早川毅彦にホームランされる
- 小早川毅彦のまさかの逆転サヨナラ2ランに呆然としたまましばらく動くことができなかった
- 涙をこらえて帰りのバスに乗ると車中では人目をはばからず号泣していた
- 1986年のグアム・キャンプでは初めて30メートルダッシュで若手に負け、引退を考えるようになっていた
- 中日の田尾安志が心配して「酒マッサージ」の先生を紹介してくれた
- 「酒マッサージ」の先生には一時的には痛みが消えても、決して元に戻ることはないと言われていた
- 中国鍼を打つもやがては鍼を打たなければマウンドに上がることができない状態にまで悪化していた
- 江川卓の現役時代(プロ野球選手)の投手成績
- 江川卓は最多勝、最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率などタイトル多数
- 江川卓は投手5冠、シーズン10無四死球試合ほか記録多数
- 江川卓はMVP、最優秀投手賞、ベストナインほか表彰も多数
- 江川卓の背番号30の理由
- 現役引退後はテレビ番組のMCやスポーツコメンテーター、解説者のほか臨時コーチはしていたが・・・
- 監督や正式なコーチ(指導者)に一度もなっていない理由とは
- コーチはハイリスク・ローリターンでメリットがほとんどないため引き受けない?
- 監督就任の可能性はある?
- 妻・正子との馴れ初めは?
- 正子が忘れられず、先輩の田尾安志と二宮至についてきてもらい宿泊先のホテルを訪ねていた
- エアメールのアドレスの書き方を口実に正子にアプローチしていた
- 別れ際に正子とアドレスを交換していた
- 正子と別れて2日後には自宅に電話していた
- 正子の母親は大の野球通で「法政大の江川卓」を知っていたことから自宅に招かれていた
- 正子の実家は常に多くの若者が出入りしていたことから溶け込むことができた
- 正子が休みのたびに正子の自宅を訪れ、仲良くなっていった
- 正子と交際中、正子の実家で正子を殴ったうえ、母親まで押し倒していた
- 正子とのケンカで正子の実家を飛び出すも、しばらくして何事もなかったかのように戻っていた
- 正子の父親は江川卓と正子のケンカを意に介していなかった
- 父親には正子との交際&結婚を猛反対されていた
- 大学4年生の秋のリーグが終わった後、正子にプロポーズしていた
- ドラフトではクラウンライター・ライオンズからの指名を断り、野球浪人したことから結婚は延期になっていた
- 正子のことを分かってもらおうと、親戚の集まりなどには必ず連れて行っていた
- 晴れて正子と結婚するも「空白の一日」の影響で家の中は常に重苦しい雰囲気が漂っていた
- 長女・早(さき)が誕生し、暗い家に一筋の光が差し込んだように感じていた
- 結婚後は妻・正子に2度手を上げるも、わがままに耐えてくれたことに感謝していた
- 妻・正子とは子供が生まれてからも恋人同士のような関係
- 子供(娘と息子)の名前がユニーク
について、まとめてみました。
お父さんからは、幼少期から、将来は野球のスター選手になると期待されると、実際、その通り成長し、早くも中学2年でノーヒットノーラン、高校1年で完全試合、その後も、数えきれないほどのノーヒットノーランを連発するなど、見事、お父さんの期待に応えた江川さんですが、それだけに、「空白の一日」を利用(悪用?)してまで、巨人にこだわったのがもったいない限り。
江川さんほどの能力ならば、所属球団など全く関係ないものを・・・
さておき、江川さんが巨人の監督になる日は来るのか、江川さんからは引き続き目が離せません。
「江川卓は幼少期から父親に将来野球のスター選手になると信じられていた!」